不合理で迷惑な行動をする人の「苦」を見つめる。性善説の視点から

不合理だったりバカげている行動、粗暴だったり迷惑な行動は他人から見れば困ったものであり、そのような行動による損失、損害を被らされる謂れは本来はない。「他人に迷惑をかけない」その範囲内での自由が与えられるというのが一般的な考え方だ。
感情表出についても不合理な怒りやイライラ感をぶつける人、他人を振り回したり操作してくる人、猜疑的独善的な人などもやはり付き合わされる側としては迷惑だと考えてしまう。
ちょっとのお金のために重大な犯罪を結果として犯してしまう人、子供を虐待してしまう人など大変重いものや、「その程度のことでそんなに怒る?」というような不適切な感情表出のような他人に迷惑をかけるものの他にも、強迫行動や依存症など、他人に迷惑をかけなくとも自分らしく生きることが阻害されるなど、人間の不合理な振る舞いはたくさんある。

迷惑な行動は矯正しろという社会の要請はもっともだ。だが、ここではそんな行動をとってしまう当の本人の「苦」に焦点を当ててみたい。重大犯罪を犯すこと、子供を虐待すること、依存的な行動全般は本当にその人の自由意志なのか、そして本当にそれはあるべき自分らしい行動なのか。
法のような社会規範は、個人の行動を自由意志に基づくものと想定し、それゆえその行動の責任を当人に帰責させる。どのような衝動が湧いてきたにせよ最後の一手となるその行動は本人が意図しているとされるからだ。手が勝手に動くわけではないというわけだ。
その自由意志に人間性の優劣や道徳が結び付くというストーリー、もっと言えばフィクションが社会を支えている。

しかし、当の本人の中では何が起きているのか。割に合わない犯罪、子供の虐待、不適切な感情表出など、どれも行動や感情のプログラムが故障している、もしくは正しく育っていないのだ。あるいは本能が正しく働いていないのだ。
金欲しさに強盗殺人をやる、レイプをする、これらは「理性がなく、本能だけで行動した」と言われることがある。戸塚ヨットスクールの戸塚宏校長はこれに異を唱える。「本能は行動の促進だけでなく、抑制も担っている」と。人殺しやレイプは正気ではさすがにできない。無鉄砲な行動を抑制することも本能のプログラムがきちんと作動しているということなのだ。共感性といった感情も人間にとっては本能を由来とする。
子供の虐待もよく言われるように、親自身が幼少期に虐待されていることが多い。正しい愛し方がインストールされていないのだ。
パワハラやモンスタークレイマーなどの不適切な言動や感情表出をする人は、状況に不釣り合いな感情を抑制したり、バランスを取ることができていない。そこでは自分が認められていないという疎外感にとらわれていたり、自分の思い通りにいかないときに冷静に状況改善する能力が欠けていて、制御不能な怒りや攻撃性に転化されている。やはり感情のバランス能力が故障しているのだ。自身を何から守ろうとしているのか、何に直面しないようにしているのか、何を認めたくないのかを考えてみるとよい。
以上の例のように、当人は制御不能なものに振り回されているというのが真相だ。
おかしな言動というのはやられた側は当人の自由意志で、つまりわざと意図してやっているものだと思うものだからムカつくものだ。しかし、当人の内部では何かが故障しており、それゆえ自身を制御しきれず当人が苦しんでいるというのもまた真実なのだ。体調が悪いとき苦しいのと同じだ。
他人に指摘されてもなかなか素直に反省できないというのも、「正しくない側が謝罪する」という社会のルールがあるゆえに見ていて腹が立つものだが、虚勢を張らなくてはいられない、そしてそれゆえに正しさを指向できないという弱さが当人の根底にあるのかもしれない。

先ほど登場した戸塚校長は「性善説が正しい」という。「本能は善」だというのだ。単なるわがままとしての自由は本能を正しく発現させたものではなく、人として正しく育つこと、必要なものがインストールされること、これが本能の力が発揮された状態だということだ。そしてそれは人類を今まで存続させてきた力であると。ゆえに本能=性を善としなくてはならないということだ。

おかしな言動の裏にある当人の苦に目を向けようという内容からやや話が広がってしまったが、「おかしさ」や「正しさ」がどこから発露するのかについても考えさせてくれるので戸塚校長の性善説についても紹介した。参考にしていただきたい。

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