「男がおごるべき」発言の深田えいみさんと飲み会説教上司との心理的共通点

先日、女優の深田えいみさんが、「デート代、なんで男が払わなくちゃいけないの」などと発言し、
「男性がおごるべき」か否かの論争が巻き起こっている。「女性はデートのためにきれいにしていく手間やお金がかかっている」というのが深田さんの主張だ。

この発言に問題があるとすれば「べき」と言ってしまった部分であり、「自分はおごってほしい」「自分はおごってくれる人としかデートしない」というのは全く問題がない。それは個人の自由であり、性差別云々とは全く関係がない。「自由」も重要な理念であり、「そんな女とはデートしない」というのも当然自由だ。まあ、そのように言い換えていても炎上はしていただろうが。

さて深田さんと、飲み会で若手に説教をしたがる上司との心理的共通点だが、それは一つは「疎外感」だ。「孤独感」と言ってもいいかもしれない。そしてそれが「高すぎるプライド」をベースにしている。どういうことか私の考えを述べよう。
深田さんの発言は、良し悪しは別にしてほんの10年前20年前まではありふれた見解だった。
男女は政治的、社会的、経済的に平等であるべきだという通念は広がったが、日本経済の停滞などの事情で、以前なら専業主婦をしていたであろう女性が働くお母さんとして多大なる負担を強いられたり、男性側も金のかからない女性を望んだり、安定志向が強まったりした。理念が現実的な事情で達成されたところがあることになる。
女性は自身の女性としての魅力を高めることで、社会経済的な力をもつ男性とつながるという観念は弱まり、現実的で安定した生活を望む方向にシフトした。「うまくいく」確率が著しく下がったことで男性への期待値が下がったのだ。

ここからは完全な私の主観だが、90年代前半生まれの女性は、容姿が魅力的な人の中に、なぜかそのことに罪悪感をもっているかのように見受けられることがたまにある。中高生時代いろいろ嫌なことがあったようだ。そして90年代後半生まれになると「ミス◯◯に出場した」とか「モデル芸能活動をしている」という女性の中に「自分はプチプラだ」「保育や医療の資格をもっている」などと自分が金がかからない女であることを強調する人がでてきた。華のある自分と、社会の期待とのズレに葛藤や矛盾を抱えているのかもしれない。
いわゆる華があるとされていた職業や活動をしている方の中には「古風」な考え方の女性が散見される。しかし、90年代以降生まれの人は素朴にその考えを信じきれてはいないのだ。男女平等の考えが浸透し、遂には女優である自分に対して、割り勘だという男性が出てきた。「本来の」男女の関係は、「女性がおめかししていき、男性が快くおごるものであるべき」だと思いこんでいたとすれば、「お金がないから割り勘でごめんね」というならまだしも「なんでおごりなんだ?」と言われ、しかもそれを「本気」で言っているということにショックを受けたのだろう。彼女の中では、おごってもらうことこそ自身の価値が認められたと感じているに違いない。そしてその「本気」の背後には大衆の賛同があることを察知したのだと思う。奇特な人の奇特な価値観と思って切り捨てることができていれば疎外感は感じないはずだ。
世の中から取り残された、みんなが本来の仕方で自分を承認してくれないという疎外感をもっているのだと思う。「女優だからって傲慢だ」と言うのは簡単だ。それはそうかもしれない。しかし、そういう寂しさが背景にあるとは思う。
飲みの場で若手に説教する上司も同じだ。「自分はこんなに大変だった」「こうやっておれは成功した」と思っている一方で、それが認められなくなってきたこと、シラけた反応をされることに疎外感を感じているのだ。これも「なんで今の若い奴らはみんなわかってくれないんだ」というときの「みんな」の存在が背後にある。ごく一部の愚か者がわからないだけだと思っているならば孤独感を感じることはないはずだ。
そして自分はいっぱしの存在であって、しかるべき承認や扱いを受けるべきだという高すぎるプライドが根底にあり、それを察知されて世間からは反発を受けるのだろう。そこに孤独感が加わることでさらに反発を受ける物言いをしてしまうというスパイラルにはまりがちになる。
人は物語を共有できないと寂しさを感じるのかもしれない。価値観の移行期には往々にしてそのようなことが起こりやすいのだろう。論争や議論は、事実や論理、平等などの一般的価値観をベースになされるため、共有されない物語を独りよがりなものとして排斥するのは簡単だ。実際は平等などの一般的価値観も物語の一種なのだが。
それぞれがそれぞれの物語を生きている。孤独を感じた者が時に反発を感じる意見を言ったとしてもできることなら少しでもその背景を想像してみるのも一興だと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?