東京15区衆院補選根本候補の「選挙妨害」について。その意義と問題点を考察。

2024年4月28日に行われた東京15区衆院補選での根本候補によるいわゆる「選挙妨害」が話題になった。
他の候補者の街頭演説「会場」に根本候補が「乗り込み」、おそらくその候補が質問されたくないであろう内容を相手が答えるまで拡声器で執拗に聞いて回るというスタイルが「選挙運動の妨害だ」として問題視された。これは候補者が自身の考えを主張する自由を奪うだけでなく、聴衆の聞く権利を奪っているとも言われた。
これに対し根本候補は「国民が知りたいと思っていることを質問しているだけ。答えてくれれば演説できないような状況にはしない」「候補者は選挙区内で言論の自由が認められている。法の範囲内でやっている」と説明する。

まず当事者も含めてこうしたやり方が常識的とは言えないことは認めることだろう。
だが政治の実践においては常識的なやり方をはみ出さないと変革できないことも多い。主にメディアによって作られる世論や空気と、権力者が作る現行のの穏当な秩序は地続きであり、そこへの変革が必要なときは常識的な空気からはみ出さないと運動はできない。よって常識的でないこと自体を批判しようとは思わない。常識的なやり方や既存の秩序が国家全体に利益だと国民が思うなら現状維持を選択すればよいし、そうでないならば現状打破を選択すればよい。
今回の運動の仕方の良し悪しや、根本候補の意図(YouTube収益や目立つことが目的だなど)への憶測は有権者がそれぞれ判断すればよいのだ。

根本候補のやり方が合法ということについては、候補者であるかないかで変わるようだ。
演説場所が届け出制などで邪魔を許さないようにしているのではなく、「紳士協定」で候補者同士が譲り合ったりしているということを聞いて私はかなり昔から違和感を持っていた。
「紳士協定」が通っていたのは、まさに「常識的なやり方をしない人には多くの有権者は眉をひそめるだろうから当選を目的にした候補者がそんなやり方をしないだろう」という観測に依存していたことになるだろう。
だがかなり昔から目立つための立候補や、最近では個人がネットで配信できるようになったことからその収益を当てにした立候補者もいるのではないかということは指摘されており、今回のやり方が「法の抜け穴」を突いているというより、単に法整備が遅れていると感じた。
これでは根本候補が所属するつばさの党の黒川代表が「各候補者のマイクや言論は対等だ」と言うのに対抗できない。
こうした事情から「会場」に「乗り込み」のようにかぎかっこを使って表現した。特定候補が独占する「会場」でない以上、よそ者が「乗り込む」という表現を使うのもおかしい話だからだ。
もちろん具体的問題が生じる前に形式的にではあっても言論の自由を縛る法律を唐突に作るのは難しいというのはあるのだろうが。

さて今回の根本候補の凸というやり方が「選挙妨害か」ということについてだが、根本候補は「暴力などの実力行使ではなく言論だから問題ない」と言うが、「言論」であるかどうかという点から考えると私は選挙妨害だと思う。
会場に行って質問した上で「候補者なんだから質問に答えろ」と言うところまではよい。しかし「答えない」という意思表示が言葉以外であっても態度などで示された以上、それ以上「答えろ」と詰め寄るのは、「行動」を強要していることになる。
「答えるべきなのに答えない」「質問に答えずに逃げた」と動画などをもとに有権者に示すことまでは言論の範囲内でできるわけだ。
だが答えない態度を相手が示したならそれ以上の言論上のやり取りはできない。つまり言論としては終結している。
よってそれ以降に執拗に付きまとうのは言論の範疇を超えていると言えると思うがいかがだろうか。
根本候補が生業としていたナンパもそうだろう。声をかけるところまではよい。応じたい人は応じればよいのだから。しかし声をかけられて脚を早めたり無言ならば、そこで諦めなければナンパの自由さえいずれ認められなくなるだろう。
ナンパと違って「立候補者なのに答えなかった」という言論は許されるが「答えないと言論させない」は違うだろう。

また「おれの」質問に答えるべき、というのも疑問に感じる。根本候補のやり方を複数の候補者がやり始めたら収集はつかない。自分たちの質問に答えるべきとすると、他の候補者からの質問に答えることだけに追われて自分の話したい主張が全くできなくなってしまうことが原理的に起こりうる。
選挙では「自分が当選者にふさわしい」と示すのに、「自分はこうする、こうできる」という本人の積極的な主張と、「他の候補はこの点がダメだ。だから自分が当選にふさわしい」という言論がありうる。
今回は前者が妨害された形だし、候補者が積極的に主張したい内容を有権者が聞く権利を侵害していると言えると思う。
この点について根本候補は自身のXで「街頭演説の当たり障りない綺麗事を聞いても意味はない」と主張する。これは聞き捨てならない。問題は2つだ。

①たしかに街頭演説なんて綺麗事ばかりで現実の政治へのアプローチとして心もとないぐらいぼんやりしたものがほとんどだ。だが、それも含めて言論であり、それがくだらないものなのかどうかは有権者が判断すればよい。「あいつの演説はくだらないし、そんなくだらない演説を聞いても意味ないよ」という言論は許されるのだからそう言いたければ言えばいい。しかしそのくだらない言論を邪魔することまで許されるというのは違うのではないか。言論の自由を謳うならばそこは筋を通してほしかった。
一点答えられないことを取り出してそれに答えなければすべての主張をさせないようにするのはダメだろう。
「これとこれはきちんといい主張をするが、この点は逃げたな。◯◯に応援されてるからだな」と個々の有権者が総合的に判断する余地を残してほしい。
②また根本候補は他の候補の過去の私的なスキャンダルや応援者の学歴詐称を凸で問い詰めていた。
これはあくまで私の感覚だが、他の候補者の演説を中身が薄い綺麗事と言うなら、このようなスキャンダル系で他候補を貶めるのもくだらないと思う。
政策の内容や誰がその候補者を応援しているのかなどを問い詰めるのは良いと思う。最近はどこの政党が支援しているのかもわかりにくいのを問題と感じるぐらいだ。
当選者にふさわしい資質が何なのかの判断は有権者それぞれなので絶対はないが、言論内容で「くだらないから封じる。無意味」という理屈がアリならこのような問いには根本候補はどう答えるのだろう。


ネット討論会のような、難しい問題も含めてバチバチやる場、地上波の予定調和的な討論会、街頭演説のような大衆向けのゆるふわな演説などなど多種多様な言論を許すことこそ言論の自由にふさわしい。

この中で特に問題なのは地上波が予定調和なことではないだろうか。過去に池上彰さんが選挙特番で「政権与党が宗教団体に支援を受けるのは政教分離に違反しないか」ということを当選者に質問して話題になったが、これは地上波でぬるい予定調和的言論しかなされていない証拠だ。
根本候補が自身のやり方の正当性を主張するならこの点を根拠にすべきではないだろうか。
各候補者が言いたいことを言う場と、問題点を指摘し合う場のどちらもあれば街頭演説の妨害は必要なかったはずだ。

また「公務員が政治運動をする、特定の候補を応援するのは違法だ」という根本候補の主張は正しいと思うが「警察が特定の候補を手厚く守るのは特定の候補を応援している」というのは違うと思った。
警察の仕事はあくまで候補者などの身の安全を守ること。これは「格」に応じて警護度を決めるのではなく、現実的な危険性があるかどうかによる判断だ。警護によって政治的に応援しているわけではなく、危険から守ることを目的にしている。警察に文句をつけるとすればその度合いの評価が間違っているという内容にすべきだ。
しかも警護の目的は、物理的暴力で政治的言論を封じさせないようにするためであり、個々の候補を守っているというよりも、まさに言論の自由を守ることにあるのだ。



根本候補、黒川代表とも純粋すぎる人たちなのだと私は思う。
選挙戦最終日の亀戸駅での演説を聞いていた。
黒川代表は「カレーに少しでもウンコが混ざってたらそれ食えますか?それはウンコでしょ?」と言って笑いが起こっていた。
根本候補も「この質問に答えなければ主張するな」というスタイルで凸を仕掛けた。
また国民民主党の玉木代表が党の考えと違うところがある乙武候補を応援することについて批判していたが、一方で「国民民主なんて弱小政党」と揶揄していた。まさに党勢拡大のために意見の多少の違いを呑んで手を組んでいると思う。どれを呑むのが許されてどれが許されないかも各有権者の判断だが。
私の意見は先ほども書いたが「これとこれはいいけど、この部分をごまかしてる。それらを総合して(よりマシな)この人に投票しよう」と有権者が決定できるのが望ましいと考える。

私は主に言論の自由の観点から根本候補を批判したが、有名ではなくバックに組織もない根本候補が政治運動の方法としてこうしたやり方をするのを全否定はしない。それもまた有権者の判断に委ねられる。
私はすべての政治家をある意味応援している。ただし「日本を良くしたい」と考えるならば、という条件はつくが。その気持ちさえあればドンパチやったらいい。

根本候補は最後の演説で「やりたいことをやってる今が一番幸せ。優等生だったときや金を持ったときよりも。一人ではなく仲間とやるのが楽しい。犬死は嫌だけど、大きいことに切り込めるなら殺されるのも本望」という趣旨のことを語っていた。
熱い想いを是非いい形に昇華してほしいと思う。

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