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続:牟田口中将の遊興話の真偽

 2018年11月にYahoo!ニュース個人にて『「愚将」牟田口廉也中将の遊興逸話の真偽』(以下、「前記事」)を公開してから2年が経ちました。

 本論に入る前に、まずは前記事の執筆に至る経緯についておさらいしたい。

 発端は、星海社が運営するジセダイに掲載された『「昭和陸軍と牟田口廉也 その「組織」と「愚将」像を再検討する」 広中一成 × 辻田真佐憲 トークイベント』(以下、トークイベント)及び『牟田口廉也「愚将」逸話の検証 伝単と前線将兵』の2記事である。両記事にて、高木俊朗の著作等に記されていた牟田口廉也中将、並びにビルマ方面軍上層部の醜聞が疑問視されたのだ。

 しかし、そのような否定論に対してネット上で様々な反論がなされ、中でもブログ『読書放浪記録』『広中一成氏の「牟田口廉也の宴会エピソード」否定論について』にて詳細な反論が行われていたのに刺激を受け、自分も検証を試みた結果が前記事になる。

 史学の素人による素人検証がどう受け止められるか震えていたものの、公開後は意外にも大きな反響を呼び、プロの史学者の方からもお褒めの言葉を頂き胸をなでおろしたものの、前記事には問題も多く遺されていた。

 中でも一次資料が少ない点は否めず(前記事でも記述したように、違法行為の可能性が高いから残す動機がない)、そういった状態では関係者による多くの証言を積み重ねていくことで、信用を増していくアプローチを取ることにならざるを得ない。積み重ねで信用を増し、修正すべき点は修正すべく、京都の立命館大学に3回足を運ぶなど、記事公開後も史料探しを続けました。

 本業の片手間でやっていただけに2年も経ってしまいましたが、なんとか記事として形になりそうなので、2021年最初の仕事として公開したいと思います。前記事はYahoo!ニュース個人での公開でしたが、今回はニュース性もへったくれもないため、noteでの公開とさせて頂きます。

 なお、前記事もそうでしたが、本記事は手間と経費がかかる反面、雑誌記事でもないため経費回収が見込めません。note上では100円の有料記事として表示されますが、無料で全文を読めます。評価して頂けるのでしたら、ご購入頂けますと嬉しいです。なお、参考文献等もAmazonアフィリエイトで表示していますが、ご容赦下さいますようお願いします。

高木俊朗は「デタラメな物語」を書いたか?

 高木俊朗(1908~1998)の作品の中で、大戦後期のビルマ方面を扱った『インパール5部作』は代表作と言っていいだろう。しかし、トークイベントの中で、新書『牟田口廉也』著者で愛知県立大学非常勤講師の広中一成氏、近現代研究者の辻田真佐憲氏、広中氏の担当編集で司会の平林緑萌氏(いずれも肩書は当時)の3人は、高木の記述の真実性に疑義を呈している。

 その上で3氏が標榜する「実証史学」と対比し、高木の記述を「デタラメな物語」と評して、「田母神論文」や「新しい歴史教科書をつくる会」と同一視する発言を行っている。それに対して、反論したのが前記事である。

 もっとも、高木のスタイルに大きな問題があるのも事実だ。小説なのかノンフィクションなのか曖昧な形式で、話の出典がどこにあるか明確でない。平林氏はそれを指摘した上で、高木が話を盛ったかを検証する方法を提示している。

平林:誰がいつ、どんな人に対して証言したのかも重要で、その点、高木は往々にして曖昧な書き方をしているんですよね。取材メモが立命館大学に保存されているので、それを見れば判明するものもあるのかもしれませんが、逆に話を盛っているのが証明されるかもしれません。

 しかし、このイベントからしばらく経っても、トークイベントに参加した御三方が立命館大学に取材メモを見に行ったという話を聞かなかったので、仕方がないので私が行くことにした。自腹で。回収のアテもなく。

 立命館大学国際平和ミュージアムには、高木俊朗の死後に遺された資料や戦記3000冊が寄贈され収蔵されている。しかし、始めに書いてしまうと、平林氏の期待したような『インパール5部作』執筆に使われたような資料はほとんど無い。年代的にもっと新しい時代のものがほとんどだ。

 しかしそれでも、高木が話を盛ったかについては検証が可能と判断できた。高木の著作を読んだ、牟田口らを知る関係者の所感が残っていたのだ。今回は短めだが、立命館大学での確認の報告を中心に書いてみたい。

牟田口の副官による『インパール』描写感想

 では、牟田口に関するエピソードを、高木は「盛った」のだろうか? 生前の牟田口をよく知る人物ならそれが分かるかもしれない。そして、高木の著作を読んで感想を残した当事者がいた。

 盧溝橋事件の際、牟田口は連隊長としてまさに事件の当事者であったが、当時の連隊副官だった河野又四郎が高木に宛てた手紙が残っている。この当時、河野は2年間に渡り牟田口の側近として一挙手一投足を見ていたと語っている。その上で、高木の『インパール』『抗命』『憤死』『全滅』を読み、牟田口の描写に次のような感想を抱いたと書いている。

牟田口将軍の性格については貴書に散見する各種の場面に於ける言動が盧溝橋事件のときと符節を合す如く感ぜられます    出典:河野又四郎書簡

 高木の著作における牟田口描写が、自分の知る盧溝橋事件の時とピッタリ合致する、という評価だ。牟田口の側近であった河野の目からは、高木による描写は自然に見えたと言えるだろう。

高木の引用スタイル

 高木の著作はノンフィクション小説とでも言うべきスタイルをとっており、引用の方法が研究論文としては問題があるものになっている。ここに「盛った」という疑義が生じるのは否めない。

 しかし、引用された原文を参照すると、高木はかなり忠実に引用しているのだ(出典の記載が不完全なので、研究論文としては剽窃になってしまうが……)。例を挙げると、広中氏が「感情的」「資料的な裏付けがとれない」と否定的に書いた『憤死』における牟田口の具体的な遊興の記述については、前記事で書いたように朝日新聞の成田利一記者の「運命の会戦」の記述を、一部略したものの他は忠実な転記になっている。

 また、自分が書いた報告書が高木に引用されていた人の記述も残っている。ビルマ七三会の戦友会誌『どりあん』第20号の「元烈師団長を偲んで」という記事は、インパール作戦で無断撤退を行い更迭された烈(第31師団)の佐藤幸徳中将を、ラングーンにて2ヶ月間世話した元兵士が書いたもので、佐藤中将による烈師団の作戦概要を口述筆記もしていた。戦後、高木の『抗命』を読んで、次の感想を残している。

 特に、この本(引用者中:『抗命』のこと)の二〇七頁にある六月二十一日ロンションにおいて、久野村参謀長を叱り飛ばすくだりは、私の書いた原文そっくりで、口述する将軍の言葉も激越な口調であり、フミネにおける糧秣不足の状況も全くそのままである。 出典:「烈師団長を偲んで」『どりあん』第20号所収

 この部分は『抗命』では出典が全く不明であったが、そういった部分でも原文に忠実に引用されているようだ。もちろん、論文としては問題のある引用だが、作家高木俊朗のスタイルが窺える。

高木の記述を史家はどう判断したか?

 だが、原文に忠実だとしても、高木の引用には問題があるのは事実だ。では、高木の著作に史料性・信憑性は無いのだろうか? 

 トークイベントの中で、辻田、平林両氏は高木の著作を「デタラメな物語」とこき下ろし、「新しい教科書をつくる会」と同様に扱っている。史料性を全く認めないという意味にとれる。その一方で実証的な史家として、現代史家の秦郁彦氏を挙げて対比している。

 秦郁彦氏といえば、現代史の様々な争点で積極的に論戦を挑んできた史家として知られ、国民的作家として知られた松本清張の歴史ノンフィクション『日本の黒い霧』の問題点を批判したことでも知られる。では、「デタラメな物語」の著者で、松本と同じくノンフィクション作家の高木も秦氏は批判したのだろうか?

 秦氏は過去の著作において、高木の記述を最新研究の成果を反映した上で引用しており、一定の信憑性を持っていると判断しているようだ。高木の著作について、秦氏はこのように書いている。

 思い起こせば、私がインパール戦に対する強烈なイメージを植え付けられたのは高校生の頃、高木俊朗『イムパール』(雄鶏社、一九四九)を読んだときである。のちにインパール三部作を仕上げる著者の第一作であると同時に、戦記ノンフィクションの分野における先駆的作品とも見なされている傑作だが、登場人物がすべて仮名だったので物足らぬ思いも残った。(引用者注:後の『インパール』と異なり『イムパール』の登場人物は仮名) 出典:秦郁彦『昭和史の秘話を追う』

 『昭和史の秘話を追う』では、秦氏は高木の記述を「デタラメ」と切り捨てるのではなく、高木が書いた頃に情報が無かったもの、断片的な記録から高木が想像を交えて書いた部分を、新史料で埋め合わせを行い、より実際に近い戦記の復元を試みている。秦氏は高木の著作にそれをするだけの価値があるとみなしている証左でもあるし、このような態度こそ「実証」の名に相応しいのではないか。

 なお、秦氏は自身が昭和の戦争史研究を志した一因として、高木の著作の影響を挙げている。その秦氏と「デタラメな物語」を対比させることは、秦氏にとってはいい迷惑に思えるがいかがだろうか。

牟田口の性格

 正直な所、牟田口の人格的な部分について、調べれば調べるほど高木の記述を裏付けるものばかり出てくる。中でも印象的だったのが、前述した秦氏が生前の牟田口にインタビューを試みた時のもので、「まさに牟田口」的な印象を抱かせた。noteの仕様で改行入れると引用が出来ないので、以下3点に分けて引用する。(※2021年1月13日追記:改行できましたので一つにまとめました)

 昭和二十八年、大学生になっていた私は江東の小岩に隠棲していた牟田口将軍を訪ねたことがある。高木の『イムパール』に刺激されたのも一因となって、昭和の戦争史研究に取りくんでいたからだが、駅前の交番で道筋を聞くと、警官はじろじろと眺め回したあと「怨みごとを言いに行く人が結構いるんでね」と弁解した。
 悪意の訪問ではないらしいとわかったのか、将軍は機嫌よく招き入れてくれたが、私の主目的は彼が現場の連隊長だった盧溝橋事件のヒアリングだったのに、話はとかく七年後のインパール戦に飛んでしまうのである。
 要は作戦の全体構想はまちがっていなかったし、もう少しで勝てたのに惜しかった。三人の師団長が不適任者ばかりで、途中で取り替えたが遅きに失した……というぐあいで、自省の言葉はなかった。しかし帰りに交番で聞いてみると、遺族に対しては頭をタタミにこすりつけて謝罪するので、無事にすんでいるという話なので、いずれが本然の姿なのか、とまどった。

出典:秦郁彦『昭和史の秘話を追う』

 秦氏と対面した牟田口も、他の牟田口を知る人物のそれに近い。とにかく自分の主張を一方的に話し、他の連中が悪いと述べ、自省はない。この時、どちらが本当の姿なのかとまどった秦氏だったが、この10年後に牟田口が秦氏に語ったことを公然と語るようになって、はっきりしたという。

 牟田口の戦後について、「遺族に土下座して謝っていた」と気の毒がる意見もネットであったが、なんのことはない。相手に応じて仮面を使い分けただけだったのだ。軍司令官にまでなっただけあって、処世術の心得は大したものだったようだ。

高木の牟田口逸話「盛り」は確認できなかった、が

 筆者は立命館大学にて高木の資料を確認したが、高木が牟田口の逸話を「盛った」という確証に足る証拠は見つからず、逆にこれまで述べたように、高木の著作における牟田口描写を肯定する資料は確認できた。これにて本稿を終えたい。

 しかし、思わぬ所で高木が偏った描写をしたのではないかと疑わせる人物が出てきた。インパール作戦中、命令に反して独断で撤退を行った第31師団長の佐藤幸徳中将についてである。それについては、近い内に記事を書く予定である。

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