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我が家の独特の習慣で自分の世界をクリアにする

これには何の意味があるのか?私はずっと自問自答していた。

昨日の投稿で、自分が見ている世界は全て自分自身が表れていることに気づいたことを書いた。

その流れで私は長年の自問自答してきたことに、光を見出だすことが出来たのだ。

そのこととは?我が家の食後の習慣のことなのである。

私は毎日二食を基本にしている、午後から起きて準備するのは、冷やご飯をレンジで温めお茶漬けにする、永谷園のお茶漬けの素は各種ある、そのストックは欠かさない。

そして食べ終わると、必ずお茶碗にお白湯を注ぎ、縁に付いた海苔のかけら等をお箸でキレイにこそげてお白湯と馴染ませる、そしてそのお白湯を飲む。

空いたお茶碗は洗わなくてもいいくらいにピカピカだ、これがたまらなく快感。

この作業は私だけがやっていた、つまり娘はお茶碗にお白湯を注ぎ飲み干すことはしていなかった、こちらに引っ越してから、突然に娘もお白湯でお茶碗をキレイにしてそのお白湯を飲むようになったのだ、とても不思議な現象だった。

そして夕食の用意、ここでもお湯は大活躍する、例えば卵焼きを作るとすると、計量カップに卵を割り入れ、だしの素少々 塩も少々、小匙二杯くらいの水を加え混ぜる、そして卵焼き用フライパンで卵焼きを作る、ここでポットに沸かした熱湯の登場。

熱湯を計量カップに注ぎ、箸でこそげてお湯に卵液を馴染ませる、そのお湯はお味噌汁の中に投入させる、決して捨てはしない。

フライパンも熱湯を注ぎ、箸でこそげてお湯でフライパンをキレイにする、そのお湯はやっぱりお味噌汁に入れるか、容器に移して私が飲んでしまうかして、絶対に捨てないようにしている。

私は元々水分補給が苦手で、下手するとほとんどお茶や水を飲まない、だからこうしてお白湯を飲む習慣は必然的なのだ、こうでもしないと水分補給を怠ってしまいがちなのである。

自分が水分補給も出来て、使った調理道具もキレイになるのだから、この習慣はヤミツキになる。

さて、夕食を美味しくいただいた後は、恒例のお白湯タイム。

娘も私と同じようにやっているのが微笑ましい、先ずご飯茶碗にお白湯を注ぐ、そしてお汁用のお椀に移す、それを飲み干す。

お行儀は悪いから、外ではやらないけど、そもそもうちは外食は皆無なのだから、これでいいのだ。

メインのお皿は油で汚れている、これは一回のお湯では落ちない、だから二回お湯を注ぎキレイにする、勿論そのお湯も飲み干すのである。

後は一番汚れが少ない食器から、紙で拭き取っていく、ご飯茶碗、お椀、小鉢、メインのお皿の順番だ、全て完了すると、食器たちが輝き、喜んでくれているのがわかる。

シンクに持って行き、仕上げにスポンジと食器用洗剤少量で洗う、だから排水口はほとんど汚れないのだ、排水口から出る嫌な臭いも防げるので、食後のお白湯タイムはとても有効なのである。

随分前に、長男の部活で知り合ったママ友に、排水口に汚れた水を流さないようにしていることを話した、するとママ友は「下水道って汚れた水を流す為に作られてるから、そんな習慣は意味がない気がする」と言った。

私は大ショックだった、私はこの地球の為に、少しでもお役に立ちたいと排水口に流す水に気を使って生きてきた、それが意味がなかったなんて!!と絶望した。

だから、食器を拭き取ってキレイにしている途中で、この事に意味はあるのかな?無意味かもね、と自問自答しながらも、やっぱり汚れた水を流せず、毎日毎食後、お湯と紙でキレイにする習慣を続けて現在に至る。

それが遂に自分なりの答えが出たのだから、嬉しかった。

全てが私だ、その感覚でとらえれば納得する、食器も調理道具も、シンクもスポンジも私なのだ、みんなが喜ぶように、行動することで幸せになる、私が排水口なら、やっぱり汚れた水を直接流されるのは嫌だ、私がスポンジなら、食器のギトギト油汚れを直接押し付けられるのは嫌だから、みんながニコニコ出来るように、食後の習慣はお役に立っていたのだと思った。

今日も娘と私は、食後の食器にお白湯を注ぎ、一心不乱にキレイにすることに勤しみ、そのお白湯を飲み干して「ごちそうさまでした」と合掌するのであった。


幸せをありがとう♡


ここまで読んでくださって感謝します。



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