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叫びたいのは私だった


私は今まで6回の引っ越しをしてきた。

その中で気になる現象があった、それは叫び声を聞く機会が身近にあるということ。

精神的な病気で不定期に発作が起こり、叫び声をあげる、そういう人が近所にいるパターンが多かったのだ。

そういう人たちは引っ越しても必ず現れる、これはどういうことなのだろうか?この世界は自分の思い込みが現実化しているのなら、叫び声をあげる人が近所にいる現象も自分へのサインなのではないか?と考えた。

今よりもずっと前、私は叫ぶ人を恐れていた、あの人は病気なんだから仕方がない、でも近所迷惑で、ご家族も苦労されていることだろう、と同情していた。

つまり私は叫ぶことに抵抗があり、また周りに迷惑をかけることだと決めつけていたのだ。

私は絶対他人に迷惑をかける行動はしたくない!と強く自分を律して生きてきた、叫び声をあげる人を拒絶してきたのである。

公共の場所で喚き散らしながら泣き叫ぶ子どもにも、あのお子さんのお母さんは大変だろうな、と同情していた、私の子どもたちもあんなふうに泣き叫ぶことの無いように育てなければ!と強く思った。

けれど長男は自分の思い通りにならないと、道路の真ん中であっても寝転んで癇癪を起こし、泣き叫ぶ子どもだった。

私はいたたまれず長男を消し去りたい気持ちになったものだ、だから長男を連れて外出するのが恐かった。

どうか他人に迷惑をかけないで!静かにいい子にしていて!と何度も長男に言い聞かせていた、そうしながら私は憂鬱だった、自由が無くなっていく、子育ては楽しいものではなく、いかに他人に迷惑かけない子に育てるかの為だけに頑張ることなのだと思えて、ただ辛かった。

そのような心理状態だったからなのか、叫び声をあげる人は常に身近に現れた。

子どもだったり、大人の男性や女性であっても、突然叫び声をあげる、私は耳を塞ぎながら、どうかあの人たちが責められませんように、と祈った、少しでも心が安らぎ叫ばなくてもよくなるようにと願った。

今日の午前中、突然物凄い泣き叫ぶ声が外から聞こえて飛び起きた。

まだ小学生くらいの男の子の声だ、ここに引っ越して間もなくして、その男の子はゴミ出しする場所辺りで癇癪を起こし叫び声をあげる、最初の頃はいたたまれない気持ちになり、あの男の子の心が安らぐように祈った。

今日はいつもとは別の感覚になった、あの男の子は私なんだ、そう思った。

私は叫びたかったのだ!理不尽な世の中に自分を置くことが我慢できなかった、もっと自由でいい、静かにしていないと怒られるとビクビクしなくていい、もっと気持ちを解放して自由に生きていいんだとこの世界に主張したくてたまらなかったのだ。

もう叫び声は恐くなくなった、それよりも私はまだ叫びたいんだね、と受け止めてあげようと思う。

自分の目の前に現れる現象は、自分の気づいて欲しい何かを表している、気になる時は自分を見つめ、自分の内側から答えを導き出そう、またひとつ自分を見つけられたようで、今は穏やかな気持ちだ。

幸せをありがとう♡

ここまで読んでくださって感謝します。

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