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読まれない文章には投資や副業やマルチからしかリアクションがない話

読まれない文章を書くのはさほど苦ではない。ある程度書きたいことが書ければ、ベースとしてはそれでいいわけで、たとえば目の眩むような賞賛とかが欲しいかというと、まあ試しにそういう状態になったら面白いかもしれないけど、基本的には欲しくない。

何か書いたりする時に、全く反響がないよりも厭な気分になるのは、恐らく自動的か半自動的にリアクションをしてくるbot的な投資、副業、マルチ、みたいなものたち。


反響が大きかろうが小さかろうがどんな記事や書き込みにもそれらはついて回ってくるとは思うんだけど、なまじ読まれない文章を書いていたりすると自分の生来の僻み根性からか、そんなものを書くのはさぞや頭とかいろいろが弱いのでであろうからつけ込んでやろう、という思惑、いやむしろ邪念を感じてしまう。


SNS上や、一般的な食事時以外の時間のファミレスや喫茶店で時折見かける、マルチや宗教の勧誘。取り込まれた若者や若者でもない者はやがて一兵卒と化して、周りからの否定の声は成功の階段を駆け上がろうとする自分たちへのただの僻みであり成功や成長を目指さない可哀想な人々の声で、敗者の遠吠えであると認識するようになる。はるか昔から繰り返されてきた光景。いとも簡単に陥ってゆく人々。明日は我が身かもしれないと寒々しく思うこともある。


だいぶ昔の話だけど、比較的若くして死んでしまった母親がまだ生きていた頃、病に伏す母を訪ねてきたのは、以前近所に住んでいた母と仲の良かったおばさん、彼女は母に新興宗教を勧めてきた。


それはとてもとても厭で悲しいことだった。記憶の中にいた気の良いおばさんがすっかり別の人になったようだった。それでいて表面上は気の良いあのおばさんのままだったことがなお悲しかった。


また、僕があまりうまくいってない若い頃に、友達のところに遊びに行ったら宗教の勧誘をされたこともある。勧誘そのものより、弱ってると見られて近寄られた、というのがなお堪えたことを憶えている。


タチが悪いなあと思うのは、彼ら彼女らは善意で近付いてくることだ。半分以上は本気で、困ってる人を救いたいと思ってるんだと思う。


だから僕は、友達に、大丈夫、困ってないよ、あとそういうのやめてよね、といったことを答えたと思う。友達をそれでやめたわけではなかったけれど。


きっと、この文章にも、何かしらのリアクションがつくとしたら、投資だのマルチだの副業だのの類いからなのかなって気がしている。


一応言っておくと、こんなこと書いてるけど人生的なサムシングがうまくいってないわけじゃないので、だから大丈夫です。あとそういうのやめてよね。






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