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「ありのまま」をもう一度考える。〜本当の願いと、2023年の目標の提案②〜


前回の続きです。

さて、新たな仮説が必要だ、というところで、
私たちが本当に切望しているものについて、もう一度考えてみましょう。

「✕や△じゃなく、 ○マルだから得られるつながり」って、ホントに欲しい?


前回の記事で書いたように、
私たちが心から望んでいるものは、
「つながりや愛」であることは、変わりません。
ですが、「✕や△の自分が、努力していつか ○マルになれば、つながりに満ちた愛に溢れる人生を獲得できる」という従来のコンセプトは、
そもそも、私たちが欲しいものを正確に表しているのでしょうか?

自分自身とのつながりでも同じです。
✕や△の自分はダメだけど、○の自分は大好き」という種類の
「愛やつながり」
は、本当に欲しいものなのでしょうか。

「○になったら、(他者にも自分にも)愛される」
それだけを信じて死に物狂いでやってきたし、
そうせざるを得なかった私たちは、
果たして本当にこの「やり方」でいいのか、
この先にあるものが、本当に欲しいものなのかどうか考えもせずに、
ひたすらに自分を "あるべき姿"(=○のわたし)に近づけることだけを目標としてきました。

もしいつか、本当に「 ○マル」になったとしましょう。
○であるわたしを愛してくれる人はいるはずです。
—すごいね、さすがだね。才能があるね。——
わたしが求めていたすべての言葉を使って、
称賛し、こまめに連絡をくれて、
わたしとつながりを持ち続けたい、という意思を見せてくれる人が、
きっと周囲に現れるでしょう。
でも、わたしははきっと、こう思うはずです。

『彼らは、本当のわたしを見ていないんだ。わたしが○だから、そばにいてくれるんだ。本当のわたしを見られたら、きっと去っていってしまう
○であり続けないと。✕や△じゃダメだ。もっと努力しないと。しかも、彼らに絶対にバレないように、努力し続けなきゃ』


客観的に見て、素晴らしく成功して、
美しさや富にも恵まれた "感じのいい人たち" が、ある日突然、
心の病気になったり、生きるのを、やめてしまうことがあります。
ひょっとすると彼らも、
「✕や△の自分を見られたら生きていけない」
「○であり続けないといけない。死ぬまで一生」という強迫観念に苛まれていたのかもしれません。


✕や△の自分を隠して、抑圧して、遠くに追いやって得られるつながりって、ホントに欲しいもの?


「ありのままで生きよう!」のトリック


もちろん、
「自分にとびきり厳しくして、"あるべき姿"になろう」という考え方(古い仮説)の苦しさに対しては、すでに多くの人が反発の声を上げてきました。
たくさんの人が、✕や△の自分を隠すために、鎧を着て生きることに
疲れ果てています。

そこで当然出てくるのが、
「そういうのもうやめようよ。ありのままで生きよう」という声です。

 〜ありのままのわたしを生きる〜
 〜自分を愛して丁寧に暮らす〜

そんなフレーズが表紙に書いてある雑誌や本は、
思わず手に取りたくなります。

けれど、ここでひとつ注意すべき点があります。
「ありのまま」が単純に、
既存の枠組みの「 ○マル」(あるべき姿)に、
すり替わっただけ、ということがあるのです。

つまり、これまでは必死に「○」(あるべき姿)を目指していたのが、
今度は「ありのまま」という新たなコンセプトを追い求めているだけ、という風潮が存在するように思えてなりません。


「ありのまま」もまた、
「あるべき姿」の一つになり下がっているように見えます。

わたしが思うに、それが一番、簡単だからです。

「達成すべきものを目標に据えて、それに向かって頑張る」というやり方しか、私たちの多くは、知りません。
そのやり方を踏襲する限り、「ありのままがいいよね!」という話になると、
今度は、「ありのまま」が「目標、達成すべき姿、あるべき姿」になってしまう、というのも、不思議ではありません。


「ありのままで生きよう」という格言や本やツイートやインスタの投稿が
巷にあふれていて、『確かにそうだ』、と思いはするものの、
なぜか苦しさや窮屈さを感じる——
そんな方は、ご自分が「ありのまま」を「新たなあるべき姿」として捉えていなかったか、考えてみると良いかもしれません。

本当に欲しい、「愛やつながり」とは


 ○マルでいれば愛される= ○マルから転落したら終わり」の苦しさと、
現代の「ありのまま」のトリックについて知った今、
心から欲している「つながりや愛」について、
いよいよ、言語化してみましょう。

…と言いつつも、わたしが知っている限られた語彙や表現では、伝えきれないものがあります。そこで、大好きな小説「はてしない物語」(著/ミヒャエル・エンデ)の後半で、
それまで、勇気や賢さ、美しさを獲得することで人からの尊敬を集め、冒険を進めてきた主人公、バスチアンが旅の終盤で得た気づきを引用します。

バスチアンは、最も偉大なものとか、最も強いものとか、最も賢いものでありたいとは、もはや思わなかった。そういうことは、すべてもう卒業していた。今は、愛されたかった。しかも、善悪、美醜、賢愚、そんなものとは関係なく、自分の欠点のすべてをひっくるめて——というより、むしろ、その欠点のゆえにこそ、あるがままに愛されたかった。
「はてしない物語」ミヒャエル・エンデ(訳・上田真而子、佐藤真理子)

いつ読んでも、自分の軸に戻ってこられる、宝物のような文章です。
ここに全てが詰まっていますが、
他の言葉でもまとめてみようと思います。

私たちが本当に望んでいる「愛やつながり」とは——

  • 「そういうあなたが、そこにいるんだね」というまなざし

  • 行動の良し悪しだけではなく、いのち(存在)を歓んでもらえること

  • 弱さや脆さ、不完全さ、ダメなところを持ったまま、むしろ、それらがあるがゆえに愛されること。誰かを愛すること。

  • ポジティブな面だけでなく、傷や痛みを通してつながること。

  • 鎧を脱いでも、弱いまま、やわらかいまま、生きていけること。


わたしは、社会が定める「あるべき姿」には、決してなれません。
そして、そうなれないわたしを、見て欲しいと思います。
「幸せになりたいなら、これはクリアしないとね」と言われる多くのことが、完全にはできません。
そして、それができないわたしを、見て欲しいと思います。

「あるべき姿」になれないわたしを見て、
そうか、そういうきみが、そこにいるんだね、と、
まなざしを向けて欲しいのです。

そしてきっと、そういうまなざし——愛やつながり、帰属意識——こそ、
私たちが本当に求めているものなのだと、思います。


机上の空論、あり得ない理想論?


「口では何とでも言えるけど、実際問題、そんなふうに愛し愛されるなんて、今の社会じゃあり得ない。結局は物語やフィクションの話で、現実はもっと厳しい。ありのままの姿なんて、晒したら負けだ」

そう思った方もいるかもしれません。
わたしも、その一人でした。心の奥底では無条件の愛を求めながらも、そんなものは存在しない、この世は食うか食われるかのどちらかだ、と、
冷淡で、批判的で、「現実的な」考えを手放しませんでした。

ですが、こんなふうに、自分の考えを文字にして書き記したり、
絵や図にしたり、トラウマとわたし で書いたように専門家のサポートを受けたりしているうちに、少しずつ、異なる見方ができるようになってきました。

幼少期から今まで、ひとつも傷を負っていない人なんて、いないのだと思います。
痛ましい思い出や、苦しみと向き合う時間。
そしてそれが、今の自分にどんなふうに影響しているのかを紐解いていくことは、「わたしは一体、何を大切にしたいんだろう?大切なものを大切にするためには、何をしたらいいんだろう」という、根源的な問いに、自分を導いてくれました。

また、人生の節目で、わたしの良いところも、短所や欠点も、全てひっくるめて、ジャッジせずに見てくれる、慈愛に満ちたまなざしを注いでくれる人々と出会いました。パートナーはその筆頭ですが、
今はもう通っていないカウンセリングの先生や、
あるクラスで出会い、Zoomでちょっと話しただけだけど、驚くほど境遇やものの感じ方ががそっくりで、お互いに、Zoomから退室するのが躊躇われるくらい、親密なつながりが生まれた人など。

「そんなものは存在しない」と決めつけていたものが、
この世には本当にあるのだ、と気づいた瞬間、
「存在しているかどうかすらわからないものを、悪態をつきながらも闇雲に探し求める旅」が、
「確かにあるものを、守り続けるか、仮に手放してしまったとしても、ふたたび手に入れる旅」に、変わりました。


「見ようとしているものだけ、見ることができる」とよく言われますが、
目を凝らしてみると、実際に、ほんもののつながりや愛を大切に生きている人が、世界にはたくさんいました。
「豊かで、美しく、社会的に成功している人たち」だけを探して、
フォローして、ロールモデルにしていた頃の自分の瞳には、
ただ、映っていなかっただけでした。


③に続きます。
いよいよ来年の目標のご提案や、おすすめの書籍を紹介しています。

お読みいただき、ありがとうございました。わたしという大地で収穫した「ことばや絵」というヘンテコな農産物🍎🍏をこれからも出荷していきます。サポートという形で貿易をしてくれる方がいれば、とても嬉しいです。