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私がクリスチャンになった訳[第8章:洗礼の恵み]

  微笑みの国に移り、約一年後に私はカトリックの洗礼を受けた。最初の半年は、まだ迷いがあり、現地の新宗教教会へ御参りに行こうかと思ったり、お寺巡りをし、仏教について学び始めたりしていた。しかしイギリスの教会で感じたように、キリスト教教会に入る度に聖霊に包まれるような感動を覚えその度に洗礼を受けたいと思った。洗礼の決意のきっかけはある若い日本人女性カトリック信徒との出会いだった。彼女は宣教活動で現地入りしていたが、人柄が良いと同時に本当に普通の女の子という感じで、こんな普通の人がクリスチャンならば、私だって特段考え込むことなく洗礼を受ければ良いのではと思ったのである。それから米国人シスターと洗礼に向けての勉強会を開始し、その半年後にカトリックの洗礼を受けた。

 キリスト教の中でもカトリックを選んだのは、幾つか理由がある。まず一点目はプロテスタントにはないような他宗教への寛容さがあるということだ。前述のようにシスターUに私の30年以上の新宗教の信仰を否定されず、それまでの私をそのまま受け入れてくださったことには感謝しており、このシスターとの出逢いがなければ、改宗の気持ちは持てなかったと思う。そしてもう一つ、私には大切な一冊との出逢いがあった。遠藤周作の『深い河』である。後生に仏教の本をよく読んでいたというカトリック教徒遠藤周作の思想が完結された大作であると言われている。神父を志しフランスへ留学したが、汎神論的なキリスト教思想を持っていることから、神父には非適格とされ、インドで求道生活を送っていた大津に遠藤は語らせている。「神は人間の善き行為だけではなく、我々の罪さえ救いのために活かされます」(遠藤周作著『深い河』講談社、pp. 187、1993年出版)。私はこの一文を読んだ時、こんなキリスト教があるなら私も洗礼を受けられると思ったのだ。そして遠藤は神を玉ねぎに喩え、「母はぼくにも、あなたのおっしゃる玉ねぎの話をいつもしてくれましたが、その時、玉ねぎとはこのぬくもりのもっと、もっと強い塊 ー つまり愛そのものなのだと教えてくれました。大きくなり母を失いましたが、その時、母のぬくもりの源にあったのは玉ねぎの一片だったと気づきました」(遠藤周作著『深い河』講談社、pp. 188、1993年出版)。私はこの大津の言葉を、世の中には様々な思想や宗教があるけれど、それは玉ねぎの一片一片に過ぎず、その一つ一つの一片を涙を流し剥いていくと最終的にたった一つの芯に出逢える、それが愛であり神であるということだろうと理解している。

   カトリックを選んだ二点目の理由。それは聖母マリアの存在と母性的キリスト教とも言えるカトリックの特徴である。私が臨床心理で実践している箱庭療法や心理療法はカール・ユングの心理学理論に基づくものだが、ユングは、1950年に聖母マリアの被昇天がローマ教皇によって正式に教義化された際、これはカトリック教会が母性原理を受け入れたことに値し、宗教改革以来の大きな出来事であると語っていたという。(高橋原著「神話を発展させる:『ヨブへの答え』おけるユングのキリスト教再解釈」東京大学宗教学年報, 14, p. 111-125、1997出版 )

  母性的キリスト教については遠藤周作が、日本人的キリスト教と重ねて彼の多くの作品で描いている。日本文化を母性的であると捉える風潮は、学問界にも見られ、松本滋、河合隼雄も主張している。松本滋は、私が以前信仰していた新宗教の某分教会長の会長であり、『父性的宗教、母性的宗教』を執筆した著名なノイマン派の宗教心理学者で、私も信者時代随分影響され読んでいた。この著に、ユング分析家の河合隼雄が感銘を受け、これをきっかけとし彼の大著『母性社会日本の病理』が生まれたという。私は遠藤の本に出逢えなかったら洗礼は受けることはなかったので彼の存在に感謝しているし、箱庭療法士の一人として河合隼雄のことも大変尊敬している。ただ私は彼らの日本文化が母性文化的であるという考え方には、一日本人女性として、又、最近母になった者として、理解し難く、納得がいかない。彼れらが作り上げ定義した「母性」は彼らの枠組みのみに存在する静的な本質と言えるもので、解放的な存在ではないように思うからだ。

   これを私に教えてくれたのは、ユング派心理療法家で『ユングとフェミニズムー解放の元型』の著者であるウェーア (2002)である。彼女はフェミニズムの視点でユング心理学を再考し、ユング理論にはユングの生きた時代背景に影響された男性優位主義と女性恐怖が反映されており、臨床的な女性理解のための新しい指針を提供するためには、一見対立し合うかのように見えるフェミニズムとユング心理学の人間理解に欠かせない視点に注目し、両者の対話と統合を目指すことが大切であると主張する。ウェーア (2002は、この理論構築の中で、解放の元型(liberating archetypes)というサブタイトルに辿り着いたと言う。ウェーア (2002)によれば、ユング心理学の批判者たちは元型をプラトン流のイデア的形相、すなわち、不変、不動なものとして捉えがちである。フェミニズムは、形相やイデアからではなく、経験や文脈から出発する。元型を心と生命の基本であるとする分析心理学は普遍的なものを探る。そして、分析心理学の批判者たちは普遍的カテゴリーは帝国主義的であると批判する。ウェーア(2002)は、「わたしがこのサブタイトルを選んだのは、解放理論の光を分析心理学に関連づけ、それによって元型をそれが静的で永久不変のものだという連想から「解放する」ためである。逆説的にいえば、このサブタイトルは、元型が解放するものであると言うことも示唆している」(デマリス・S・ウェーア(2002)著『ユングとフェミニズムー解放の元型』村本 詔司、中村 このゆ 訳、ミネルヴァ書房、P.11、2002年出版)

  イエスの母性性について語る際、当事者であるクリスチャン女性、母たちの語る声や研究結果に注目する必要があるのではないかと私は思う。私は以下の小松(2009)の論稿に感銘を受け、非常に納得できた。小松は神のジェンダーの問題を論じたソスキースについて、イエスの母性性の観点から言及する。ソスキースは中世の女性神秘家ノーウィッチのジュリアンが、キリストを「私たちの真の母」と呼んでいたことをとりあげている。それは、キリストは人々に命を与え、永遠の生をもたらしてくれたことを意味する。永遠の生をもたらしたのは、イエスの十字架上の死によるものであり、流された血が永遠の生命を生んだと考えたというのだ。また、ソスキースは、テレサ・オクレとい うアフリカの新約聖書学者の「血縁の血は、常に生き続ける先祖の血である。これが人間の血の真理ならば、 キリストの血は、神の子である我々すべてを産み、命の糧を与えるものでないことがあろう か」(小松加代子著 「メタファーとしての観音―アジア女性神学から」 多摩大学紀要, 1, P. 71-78、2009年出版)という言葉も、ジュリアンの表すキリストの血のメタファーとして取り上げている。この「真の母」、「キリストの血は命の糧」という考えに私は強い共感を抱くし、初めて聖書を心で読み始め、イエスに触れた時になんとなく味わった「母性」の感触を思い出す。
  とは言え、私は幼い頃父を失ったものとして、神を「天のお父様」と崇めることに大きな安堵感を持っているし、その延長線上で、イエスを兄のように慕うような気持ちにもなっている。聖書をどんどん読み進めていく中、イエスは、母性と父性の両面を持っていると感じたし、そもそも母性とは何か父性とは何かといったことがわからなくなってしまったというのが正直な実感である。宗教学的に、深層心理学的に、文化人類学的に、学者たちがどうイエスの母性や父性について言及したとしても、イエスについて私が言えることは、彼は私の主であり、彼は私を俗に言うところの「母」のように優しく育み包み込んでくれると同時に、俗に言うところの「父」のように教え導き危険から守ってくれるていると感じている。正にイエスは私にとって父のような、母のような、兄のような、姉のような存在なのである。性と聖書を語ることは非常に困難である。それは、私が生まれ育った日本社会や嫁いだ先の中国系東南アジア社会の中で女性として踠き苦しみ、フェミニストやクリスチャンと自称しない限り、自分のアイデンティティは無に等しいと感じる一女性として、又、伝統的東南アジア華僑の長男でLGBTQ である夫と性生活がないフラストレーションと闘い、彼の強い母性本能があるゆえに、共同子育てを非常に難しく感じながら仕事と家事と子育てに没頭し日々を過ごす一妻として、一母として、ことごとく実感することなのだ。性とユングと聖書については、いつか時間が見つかれば、勉強したいと思っている。
  そして、カトリックを選んだ三つ目の理由。それは、聖体拝領である。プロテスタントでは一月に一回のところが多いが、カトリックでは必ず毎週日曜のミサでこの秘蹟が行われる。この秘蹟により、私はキリストの命を頂戴し、キリストと一体化する。キリストの身体が私の身体と心と魂の隅々まで入りこんでくださることを実感する。聖体拝領の後席に戻り静かに目を閉じ2-3分祈る。この時、私はもっとも神聖で、神秘で、贅沢で、超越的で、平穏な空間と時間の中に自分を置くことができるのだ。
  この三点がカトリク信者になりたい、成り続けたいと思っている理由であるが、これに加えて、宗派を超えてクリスチャンになりたかった、あり続けたいと思う点もいくつかある。ここまで書き綴ってきたことと重複するかもしれないが、まとめてみると下記のようになる。

超越神という神
  私は新宗教信者時代に、親教会(本部が最高峰にあり、その傘下に大教会、分教会と続き、末端教会へと続く教会組織。分教会の上にある分教会や大教会は親教会という呼び方をされる)を立てる、自分の親に親孝行をする事で、親の親のその又上にある親神様に助け守られるというようなことを教えられた。信者時代はそう信じ、献金を行なったり、組織の上司の言うことをおかしいなと思いつつ鵜呑みにするように自分を信じ込ませていた。しかし段々に、それは自分のアイデンティティ形成に良いこととは言えないと思い始めるようになった。聖書を初めて心で真剣に読み始めた時、私の主はたった一人。人間でなく、この主についていけば良いのだとわかり、私の心は救われた。神学者でもない私がここで超越神の定義や理論に触れることはできないが、人間や世界の事情や全てを超えたところにある唯一絶対の神ということを思い出させてくれ、家族や新宗教のしがらみから私の心を救ってくれる大好きな新約聖書の箇所がある。

こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。 御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。 どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、 信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。 また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、 人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、 教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。
                    (エフェソ 3:14-21)

  苦しい家庭環境や縦社会を重んじる宗教組織の中で育った私は、いつの日からか、親、父、母、姉妹、夫婦などは、その人そのものを指すのではなく、そういう名前が与えられただけで、何かを私に伝えるために、家族の名を持って私の前に現れているのだと思うようになり、その悟りによって気持ちが楽になった。その家族の名前は、全てを超えたところにある神が私たちに与えられたものというこの聖書の御言葉に大変癒される。キリストは直接、私の心の内に入ってくださる。キリストと私の関係の中に、家族や親教会長など他の人間はいない。キリストのみ私の主であるから。そのキリストの愛の深さは人の知識をはるかに超えるもの。神のなさることは私たちが求めることをはるかに超えている。そんな超越神としての神に私はひざまずいて祈ることができるのは最高の喜びである。32年間、異郷の神を信じ、彷徨い、もがき苦しんだ故に味わうことのできる大きな喜びであると思っている。

主としての神

主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
主はわたしを青草の原に休ませ
憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる。
主は御名にふさわしく
わたしを正しい道に導かれる。
死の陰の谷を行くときも
わたしは災いを恐れない。
あなたがわたしと共にいてくださる。
あなたの鞭、あなたの杖
それがわたしを力づける。
わたしを苦しめる者を前にしても
あなたはわたしに食卓を整えてくださる。
わたしの頭に香油を注ぎ
わたしの杯を溢れさせてくださる。
命のある限り
恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
主の家にわたしは帰り
生涯、そこにとどまるであろう。
(詩篇23)

  多くの聖書の言葉が私を包み癒してくれた。この詩篇23は、キリスト教に惹かれていった最初の頃に出逢った御言葉だったように記憶している。聖書を真剣に読み始めた頃、私はよく、ハッとしたりドキッとしたりしながら目から鱗状態になり、じわじわと心の奥底に込み上げてくる感動を味わっていたが、この詩篇23の一行目「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」を初めて読んだ時も同じような感動が込み上げてきた。「羊飼い」とは新宗教の神のイメージとは随分違った神のご性格だなあと素朴に思ったものだった。自分で運命を切り開き、因縁を変えて、神の建設する陽気暮らしの世界に貢献するような人材として自分を成長させなくても良いのだと思うと、心からほっとした。以下の御言葉もことごとく私の心を打つ。

わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。 そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。 わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、 わたしに出会うであろう、と主は言われる。(エレミヤ29: 11-14) 

  このストーリーの「はじめに」で述べた「わたしはある。わたしはあるという者だ」‭‭(出エジプト記‬ ‭3‬:‭14‬) という神の性質がここに見つけられる。この「ある神」が私を見つけ救ってくださり、私に計画をお持ちであり、日々導いて下さっている。そして、そのご計画は私が生まれる前から確かにあったもの。聖書は下記のように伝える。

あなたは、わたしの内臓を造り
母の胎内にわたしを組み立ててくださった。
わたしはあなたに感謝をささげる。
わたしは恐ろしい力によって
驚くべきものに造り上げられている。
御業がどんなに驚くべきものか
わたしの魂はよく知っている。
秘められたところでわたしは造られ
深い地の底で織りなされた。
あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。
胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。
わたしの日々はあなたの書にすべて記されている
まだその一日も造られないうちから
(詩篇139: 13-16)

  この御言葉は、特に母との関係が複雑だった私にとって大きな慰めとなっている。聖書の十戒においては、父母を敬えと教えられるが、敬うのであって従うのではない。私たちは、正しい羊飼いである神のみに従えば良いのだと知った時私は大変大きな安堵感を覚えた。次の聖書の言葉にもハッとさせられた。

「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。 しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。 地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。 また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。 あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」
(マタイ5:33-37)

  誓ってはならないと神様は仰るのである。新宗教信者時代に教えられたこととは正反対である。新宗教では、用木として、「心定め」をして、神に約束事をし、それを守ることが大事と聞かされた。例えば、私は、大学生の時、祖母の運営していた某新宗教分教会の後継者となること、1年に3人の知人に新宗教の信者になってもらうこと、毎月5千円献金する等の「心定め」を行なった。そして、神様はそうすることによって何倍にも返してくださり、良い道が開けてくると教えられ、それを素直に信じていた。しかし、イエス様は仰ったのだ。私は誓ってはならないと。どんなライフイベントが起きても『然り、然り』『否、否』と言い続けていれば良いのだと。そんな生き方には試練もあろう。しかし、良い羊飼いについて行くならば、何も恐れることはないのだ。

罪人というアイデンティティー
  超越的な主である神についていく自分は罪人である。私はこの罪人というアイデンティティが堪らなく好きであり、心より納得できている。私が新宗教信者時代、自分のアイデンティティとして教わり、信じていたのは、陽気暮らしの世界建設のための親神様の「用木(ようぼく)」という事であった。用木として、自分の心の埃を払い、前生の因縁を切り、人助けして、教えを世の中に広めるのが私の務めであると教わり信じていた。自分で自分の心を正し、ポジティブ思考で生きる、これは言わば現在の一般的心理学に同調する論理と言える。しかし私は自分が罪人であると自覚した時、「罪」というのは心の埃や心遣いの悪さに値するものではなく、もっともっと深い、人間の理解には超えるような悪の存在を指しているのではないかと思ったのだ。そしてその罪の贖いをキリストはなされ、私は彼を受け入れることによって救われるということが、以前はそんな馬鹿な話がある訳ないと思っていたのに、スーッと心に入り、理解できたのだ。山上の垂訓「こころの貧しい人は幸いである」を読んだ時、大変感動した。「そうか、私の心は貧しくて良いのだ。寂しくても悲しくてもうつ状態でも良いのだ。新宗教が教えるような陽気な心に自らを仕向けられなくても良いのだ。なぜなら、私の貧しい心を満たしてくれる、主がおられるから」この気づきは私にとって大変大きなものであったし、今後も心理士として生きていく上で、大切に持って行かねばならない心得であり、一つの研究課題であると思っている。なぜなら、このイエスの教えは現在のポジティブ思考が主流の心理学とは反対であるからだ。私はユング派のスーパーバイザーよりトレーニングを受けている際、自己尊重が低いと言われ、それは私は神を信じているためだと彼女に伝えた時、そんな自分を変えなければならない指摘され、心が折れてしまった経験を生涯忘れられない。ユングの心理学はキリスト教の真髄と重なる部分が必ずあると、私は一人のユング派志向心理士として、クリスチャンとして信じている。いつかパストラルカウンセリングを勉強し、この課題に取り組みたいと思っている。(続く)

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