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ねえ、マスター 1

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電子書籍サイト、パブーで販売中の連作短編ハードボイルド小説。無料で公開している第1話です。
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ねえ、マスター

ねえ、マスター

Order1 マンハッタン

     (1)

遠く銃声が響いた。1発、2発。

台風から変化した温帯低気圧が今夜、関東地方の沿岸を通過するらしい。夕方から降り始めた雨は日付が変わる頃から激しさを増し、いまは店内に流れる何のひねりもない『クレオパトラの夢』を時折かき消すほどだ。それでも記憶に沁みついた音は聞き違えるはずもない。俺はグラスを磨く手を止めて耳を澄ませた。

3発。近付いている。今度は

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     (2)

店は上野公園に近い裏通りに面している。大通りから外れた一方通行の路地で、日が暮れると薄暗い、閑散とした街の片隅。築25年の寂れたビルの1階で細々と営業している。ロッジをイメージした板張りの内装。スツールが4脚並んだカウンターの他には、4人掛けのボックスが2席、2人掛けが3席の狭い店だ。

男たちが出ていったドアの反対側、カウンターの端にホールと行き来するためのスイングドアがある

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     (3)

午前11時、『CAFE RICK‘S』の店名が入ったスタンド看板を出す。

夜のバー・タイムだけでなく、ランチ・タイムも店は開ける。店舗の稼働率を考えてのことではない。開店を夜まで待っていられないだけだ。何かしていないと落ち着かない。毎日、何かに追われるように料理を作る。シェーカーを振る。

日替わりメニューは1種類。その他はピラフ、ナポリタン、ピザなどバー・タイムと共通の軽食

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     (4)

階段の踊り場が、すっかり桐島の定位置になっていた。

昨夜も、せっかく空けてやったベッドを使わず階段で夜を明かしたらしい。敵を警戒してのことかと思えば、「他人の寝床が気持ち悪かった」とほざく始末。潔癖症のヤクザもいたものだ。

「郷田の旦那に俺のことを喋らなかったことは、いちおう礼を言っとく」

「必要ない。客の前で捕り物をされたくなかっただけだ」

いまも桐島は踊り場に腰を下

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     (5)

ランチタイムの後は珈琲を淹れるのが日課だ。

アメ横の専門店で買った生豆をフライパンで煎るところから始める。焙煎した豆は手動のミルで挽き、ネルのフィルターにおさめ、銅製のドリッパーにセットし、専用のケトルで湯を注ぐ。ローストした豆から逃げた香りが店内を満たし、ランチタイムの残り香を中和する。脂の焼けた匂いや穀物を加熱した香りも嫌いではないが、夜のバー・タイムにカクテルやワインや

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(6)

銀座線と東武伊勢崎線を乗り継いで向島へ向かった。

桐島の、そして世間の認識は、事実と若干のズレがある。イラクで武装勢力に襲撃された〈警備会社〉だが、施設巡回や現金輸送業務を主とする日本の警備会社とはだいぶイメージが違う。むしろPMCと呼ばれる民間軍事企業に近い。本社所在地のイギリスと軍事同盟関係にある欧米諸国の軍から依頼を受け、軍事作戦における後方支援サービス全般を提供する組織だ。内容

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     (7)

ノックをすると待ち構えたようにドアが開いた。

閉じたチェーン越しに顔をのぞかせたのは30過ぎの女だった。小柄で華奢で、地味な見た目に違和感を覚えた。染めていない真っ直ぐな髪を後ろで無造作に結わえている。化粧っ気もない。ヤクザの〈囲い女〉にしては、いかにも地味だ。住んでいるアパートにしても、遠目には小奇麗だが実際に足を運んでみると目に見えて安普請と知れる。

「桐島という男から

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     (8)

夕方から風が強くなった。また、台風が近づいているようだ。

吹き抜けるビル風が唸りをあげ、店内に流れる『ラウンド・ミッドナイト』を時折かき消す。客足も極端に鈍い。こんな夜に限って、閉店間際に一見の泥酔客が単身転がり込み、ビール1杯で長居したりする。そんな面倒は避けたい気分だ。閉店時間の30分前でノーゲスト。今夜は早めに店じまいすることにした。招かれざる客は、相変わらず階段の踊り

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