音楽之友・ゲリラ的進軍・東日本大震災と趣味の雑誌媒体
音楽之友
音楽之友社が発行する『レコード芸術』の休刊が報じられた。創刊してから70年余りをもってその雑誌の幕を閉じることを決めたようだ。
その昔、私は音楽之友社が発行する雑誌に寄稿していたことがある。
そもそものきっかけは、Øystein Baadsvik(オイスタイン・ボーズヴィーク)という、ひじょうにユニークなチューバ奏者の来日だった。確か2008年のことだった。
なぜ、ボーズヴィーク氏に関心を持ったのか、なぜゆえチューバなのか、はきちんとした理由の説明が難しいものの、思い起こされるのは瀬川深さんの『チューバはうたう―mit Tuba』という小説を読んだからだったような気がする。
瀬川さんは医師の傍らで文筆活動をされていて、この作品で文学賞を受賞したりと注目の作家だった。以降、多くの作品を量産していったわけではないものの、確か若き女性の瑞々しさとチューバという意外な組み合わせをとても新鮮に感じたような気がする。
私はボーズヴィーク氏の来日をたまたま知って、聴きに行った。特定のオーケストラに所属しない、フリーのチューバ奏者だからか、コンサートホールではなく、平場での演奏が行われた。
演奏終了後、聴衆は誰でも彼に話しかけられるような雰囲気だった。英語の不自由はあったが、彼に話しかけてみると、思いのほか、親切に答えてくれた。その内容が面白かったので、私は音楽之友社に唐突に電話した。
すると、『音楽之友』の編集子が対応してくれた。原稿を見せたところ、ごく小さな枠に載せてくれた。
署名活動
反応
ゲリラ的進軍
その後しばらくしてから、別のジャンルで、別の媒体社へ同じやり方で連絡してみた。すると汐留に所在するその通信社で、編集長が対応してくれた。その編集部には編集子がいなかったからだ。
その時に知り合いだった、ある小規模メーカーの社長同士が互いにリスペクトしているということがたまたま分かり、しかし会ったことがないということだったので、引き合わせる飲み会を設けた。
それで、実際に三者(六者)で飲んでみると、これが大いに盛り上がり、それぞれの配偶者まで参加した飲み会は、ゆうに10時間を超えて飲み続ける大宴会となった。
これは原稿になるというか、しないとまずいなという面白さに満ちていたので、その通信社に(また)突然電話したのだった。
編集長は、「まあ原稿をみないとわからないので」ということだった。そして原稿を見せたら、「では後ろの方の頁で」とは言わなかったが、後ろのモノクロ頁に載せてくれた。以降、季刊誌発行の媒体ではあったが、毎号書くようになった。
毎号書くうちに、その分野の評論家(の先生)と懇意になった。すると、その先生は音楽之友社でも書いてみればと、編集長を紹介してくれた。こうして再び、しばらくぶりに音楽之友社にもお世話になるようになった。
私の記憶では、当時から音楽之友社は、経営的に順風満帆というわけではなかったように思う。記憶は曖昧だけれど、ヤマハの経営支援を受けていたように思う。
東日本大震災と趣味の雑誌媒体
その後、一、二年ほど随分入れ込んで毎月書き続けた。
本業そっちのけだった。
汐留の通信社、神楽坂の音楽之友社、中野のモノ系雑誌社と書く場所が増えていった。
その様子を見た評論家の先生から、業界に若手の書き手が少ないゆえ、その時勤めていた会社を辞めて専業ライターになることを呑むたびに勧められた。
そんな矢先に東日本大震災が起きた。
(その日も、知己を得た別の評論家の先生と浦安で初めて呑む約束をしていた。私は、地震発生後も浦安まで行く気満々であったが、その先生から駅前の道路が陥没し、それどころではないと連絡を受けて、諦めた。しかし、これは諦めてよかったのは言うまでもない)
そしてわれわれの生命や財産は唐突に脅かされた。
日本のなかで、人びとの考え方や価値観も大きく変わったように思う。
媒体発行に関して言っても、こと趣味系の雑誌は、大打撃を受けた。生命や財産が脅かされているなかで、趣味の雑誌など誰も購買できない。その影響で、汐留に所在する通信社のそのとある雑誌は、早々に紙の雑誌の発行をやめる決断をした。実質的には休刊を迫られたということだ。
それ以前もそれ以降も、多くの雑誌媒体が休刊してきた。まだ健闘している紙媒体もあるにはあるものの、厳しい戦いを強いられる老舗も多い。
私自身も、趣味を謳歌する(したい)気持ちが、東日本大震災後に結局戻らず、ライターとしての仕事はそれ以降、手掛けることはなくなっていってしまった。私の関心はそもそもそうした既存メディアが置かれた厳しい環境から、現在のメディア状況そのものをどう見立てればよいのかという方向に向かっていった。
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