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街の上でが描く編集の暴力性

編集の持つ暴力性、記憶の持つ暴力性・恣意性がメッセージ。

あらすじ:
下北沢の古着屋で働く主人公が彼女にフラれる→読書シーンの学生映画オファー→演技下手過ぎてカット→打ち上げ参加→女の子と意気投合→元カノへの未練や今カレへの愚痴のあと、カップル合流→ヨリ戻す、という流れ。

表層的にはカップル合流からのアンジャッシュばりの勘違いコントが面白い。

評論:何気ない会話の連続、でもその中に重要な提言が入っている。読解力を試される。
冒頭、かちわり持って読書シーンのカットからはじまる。
読書シーンというフィクションなのに、ドキュメンタリーっぽさ、演技ではなく自然な空気感が流れている。
ここが既にメインメッセージで、作り込んだ映像ではなく日常を切り取った映像を撮りたいという意図が見える。
そして重要なセリフ。
「これは私が見たかった映像、映画に存在していたはずの映像だ。誰も見る事はないけれど確かにここに存在している。街の上で。」
田辺さんのナレーションだが、これがメッセージの全てになっている。
映画というのは見たかったモノを映像化したものではなく、監督によって削ぎ落とされていく、編集されていくのが映画ということ。
私が見たかった映像は編集されカットされている、でも確かに私の中の記憶には残っている、というメッセージ。

そのあと、彼女が浮気した挙句別れたり、古着屋で自分のことを好きな女の子に服を選ばせて自分が好きな女の子とデートしに行くシーン。
自分にとってその人は一位でもその人にとって自分が一位とは限らない、関係の暴力性を描いている。

そしてこれまた重要なセリフ。
「文化って凄い、小説とか映画とか。残ってくから。街はいつか消える、どんどん変わる、店も景色も。」
「街も凄い、変わっても無くなってもあったってことは事実だから。」
これは、書店のかわなべさんの死、つまり亡くなっても生きていたことは事実ということを言っているだけでなく、メタ的には、街も人間関係もいつかは消えていくが、でもそこには確かにあったものだから、残していきたい、というメッセージになっている。

イハとの恋愛話で、恋人について話したくないイハに対してのセリフ、「話したくない恋人の存在は存在の否定なのか」も、記憶から消したい人は存在しなかったことになるのか、という問いになっている。

最後、読書シーンが下手すぎてカットされた試写会を観て、田辺さんが監督に詰め寄るシーン、「存在の否定じゃんか」「映画ってそういうもんだから」これも露骨に映画という編集の持つ暴力性を指摘している。

主人公に読書シーンカットされてなかったよ、とウソつくイハ。これはウソなのか?
これも、田辺にとっては確かに存在していた映像という冒頭のシーンにあるよう、誰かにとって不要なシーン・記憶は、誰かにとっては必要で編集されない大事なものであることを表している。

街の上で、というタイトルは、正確には、「街の上で繰り広げられる人間関係を映像で全て残したもの」なのかもしれない。
タイトルも、編集の暴力性によって文字を削ぎ落とされたのだと思う。

まとめると、
人間関係は繋がっていていて関係性は絶えず変化していくし、全部上手くはいかないが、街の上で人間関係は絶えず変わっていき残らないものもあるかもしれない、が、その人や記憶、人間関係は、無かったことにされているだけで、確かに存在していたものである。
編集の暴力によって無かったことにされるが、別の誰かにとっては存在するもの。

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