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「政治的発言」との正しい向き合いかたを考えよう

「政治的発言」をする前に見てほしい。私たちはどのような気持ちで政治的発言と向き合うべきなのか。

最近、ツイッターが政治の話で騒がしい。

どれも言葉が悪くて、見ていて気持ちの良いものではない。

中には「歌手のくせに」とか「マスク姿が気持ち悪い」とか「○○のスパイだ」といったような個人攻撃も少なくはない。

こうした個人攻撃は論外だが、そうでなければどんな政治的発言も自由だ。どんな発言をしたからって、社会的制裁を受けるべきではない。でも、だったらどのように発言をしても良いのだろうか。

そもそもなぜ政治的発言は自由なのか。それは私たちに「議論」が期待されているからだ

AとB、意見の違う者同士が議論し、より良い意見Cを作り出す。そしてその後、Cは新しい意見Dとぶつかり、議論し、より良い意見Eが生まれる。。。

これが議論の持つ最大の役割であり、そのためにこそ、政治的発言の自由は追い求められてきた。良い議論を常にできるからこそ、国は絶えずより良いものになって行くのだ

では、今の状況はどうだろうか。「Aが正しい」「Bが正しい」「Bを主張する人は売国奴」「Aを主張しているあの人はこんな人だからBが正しい!」「Bを主張する人は勉強してない!」

そこに、愛はあるのか。そこに「僕たちはお互い意見が違うからこそ、議論して、より良い意見を生み出そうじゃないか」という、お互いに切磋琢磨し合う精神はあるのだろうか。

そうではなく、ただ自分の意見を過信し、相手に打ち勝とう、相手を論破してやろう、相手に恥ずかしい思いをさせてやろうという、足の引っ張り合いの精神に陥ってしまってはいないだろうか。これでは互いに足を引っ張り続けて、前には進まない。良い議論ができていればC案が生まれ、D案が生まれ、E案が生まれ、F案が生まれ、G案が生まれていたはずなのに、未だにAかBかで停滞してしまっている。

私たちが政治的議論を交わす時に大切なのは、お互いの意見をより洗練されたものにしようという切磋琢磨の精神なのであって、相手を負かしてやろうという足の引っ張り合いの精神では決してない。

ツイッターで政治的発言をする前に、何かを肯定的にとらえたり批判したりする前に、それは本当に切磋琢磨するためのものなのか、ただ意見の異なる者に勝ちたいとか、意見の異なる者を貶めたいという不純な動機によるものではないかどうか、自分は自分の意見に固執していないかどうか、ワンテンポ考えてみてほしい。

おかしいと思うことをおかしいと言ったって良い。そうだと思うことをそうだと言ったって良い。ただ発言の動機を変えるだけで良いのだ。そうすれば、内容も、表現も、その後の結果も随分と良いものになる。

私は、人間というものは、本当はそれができる生き物なのだということをよく知っている。私たちは、困難に遭遇したときにこそ「違い」を力に変えてきたんだ。こんなときだからこそ、分断は避けようじゃありませんか。

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