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ピースとセブンスター

 人間という生き物には、予め定められた道のようなものが存在していて、結局その人がどう足掻こうとも、そのレールから外れることができないものなのかもしれない。
 僕は今年で二十六になるのだけれど、病気の療養のせいで働くことはできていない。いや……全てを病のせいにするのはよくないことだ。少なくとも就職活動の時期には、僕は今よりずっと健康体だったし、その気になれば社会という恐ろしい波へと漕ぎ出すことができていた。すなわち、これもまた〝道〟というものによる導きなのであろう。つまり、僕は予めこうなるように、社会から疎外された場所で生きていくように生まれた人間だったのである。思い返せば、僕の人生における様々なエピソードは、自らの暗い未来を暗示していたように思われる。最近は、そういった光景をよく夢で見る。大体は暗澹として、思わず目を覚ましてしまうような辛い、苦い思い出ばかりである。どうやら悪夢障害というものらしい。
 ………だから、起きている間だけは、なるべく幸福な記憶について考えるようにしている。ベランダで煙草を吸いながら、僕は様々なことを追憶する。少年時代の夏休みだったり、青年時代の淡い青春についてだったり、そういったことを考えては煙を吐き出す。今頃、皆はどうしているのだろう? そう呟きながら火を消して、昼間でも暗い自分の部屋、冷たいベッドへと戻っていく。これが、ここ最近の毎日、日常の景色である。
 ああ、道というものはなんと残酷で、荒々しく、果てのないものなのだろうか。僕は一人の友人のことを考えながら、そんなことを思う。その友人とは大学時代に僕が深い親交を結んでいた人で、今では過去の人物となってしまった存在である。Kという名の彼がよく吸っていた煙草、ピースという銘柄を、僕はよく吸うようになった。バニラの上質な味わいが特徴的なその煙草であるが、僕は特別、この風味が好きだというわけではない。ただ、僕は一つの特別な記憶として、この煙草を愛しているのである。あの頃は、誰もが若く、幼く、そして輝いていた。……僕はここに追憶する。幸福な記憶について考えるように、自らを慰めるように、文章という火で、この凍える身体を温める。あの大学時代の四年間、それこそ僕の〝道〟がもう取返しのつかないレールへと続いていったあの最後の青春について、僕は文字を紡ごうと思う。……道というものは前だけでなく、後ろにも続いているものである。それを辿ることで、過去の幸福を再び手にすることができたなら、僕はまだまだ生きていけそうな気がするのだ。
 

 
 高校を卒業し、僕は広島県尾道市にある尾道市立大学という学校へと進学した。僕は高校二年生の時から、この大学で文学について学ぶことを夢見ていた。尾道という土地に僕は強く惹かれており、古く狭い町で四年間、孤独に過ごすということが自分にとっての理想だった。また校舎周辺の環境、四方を山に囲まれたダム湖の畔という自然豊かな立地は、僕が昔からかねがね見ていた夢の風景に近しいものがあった。僕が下宿する先は高台に建てられた平屋を学生向けの寮として利用したものであり、部屋からは美しい湖を眺めることができた。また夜になると裏の神社、鎮守の森からフクロウの鳴き声が聞こえ、木々の騒めきが布団の中にまで響き、自然の中で暮らす人間という生き物の孤独を感じさせてくれた。僕はここで一人精神的な生活を送り、その果てに何か特別なものを獲得するのだと鼻息を荒くした。それが、この土地へ引っ越してきた最初の頃のことだった。
 一年生の春、僕はまだ情熱的な詩人であり、自らの内部に存在する暗いものについてひたすらに懊悩する青年だった。僕には家庭環境や病気などの暗い過去があり、それに由来する捻じ曲がった感情、人間性を体内に飼育していた。だからこそ、人間関係というものは自分にとって悩みの種であった。僕は他人たちというものを尊重することができない人間だった。自分が認めた人物のみにしか心を開かず、それ以外の存在に対しては表面的に友好を繕うか、ずさんな態度をとるかのどちらかだった。高校時代の途中までは、僕はまだ上手くやれていた方だった。しかし心が成長するにつれて、自分の中の暴れ馬を制御できないようになっていた。孤独を愛するようになってから、僕は自分という人間を取り繕うことをやめた。そして、大学生となったこの春、僕は何人かの表面的な友人をつくり、そして仲違いをした。僕は自分が、いかに勝手な人間であるかを知った。僕はやはり、他人というものを心の底では見下していた。誰も自分の孤独というものを理解できないのだと決めつけ、友人を道具のように利用していた。その結果、多くの人間が自分の手から離れていった。そして、一人だけが、Kという親友だけが残った。
 僕とKは似た者同士だった。特に、自分の人生というものに対して退廃的な考えを持っていることが共通していた。僕たちは自傷行為が好きだった。色々なものを犠牲にして、自分の世界を守ることを愛していた。そういった部分が、おそらく他の生徒たちとは決定的に異なった部分だった。
 僕が他の人間と仲違いをする主な理由は、グループワークというものにあった。僕は集団で取り組む課題というものが苦手だった。一人であれば、そういったものに対してそつなく取り組めるのだが、集団となると途端に自暴自棄になってしまい、自らの役割というものを果たせなくなるのだった。僕の根底には、自分という人間がどうなってもよいという強い観念のようなものがあった。そのメンタリティが、グループワークという場で効果的に作用し、僕は他者から反感を買った。馬鹿らしい、と当時の僕は思っていた。なんで皆、そんなことに必死になっているのだろう。明日には死んでいるかもしれないのに。などと、そのようなことを幼稚にも考えていた。そういった退廃的な精神性が、Kという人間と僕との共通点だった。Kはグループワークこそしっかりとこなす人間だったが(他者からの悪意というものに彼は耐えられなかった)、授業には来ないことが多かった。彼は鬱病を患っていた。だからこそ、自分というものを守る為に、彼は様々なものを犠牲にする必要があった。そういった精神性が、やはり不思議と僕らの共通点だった。いつの間にか、僕らは共に多くの時間を二人で過ごすようになった。
 僕たちが過ごす場所、それは湖沿いのベンチが主だった。深い水の青を前にして、僕たちは様々なことを語り合った。大体はどうでもいいような、くだらない話が多かった。二人は気の滅入るような、暗い話などは口にしなかった。僕もKも、そういったものを話題にするには疲れすぎていた。だから、煙草を片手に僕たちは野球の話をしたり、架空のゲームについて設定を練ったり、そんなことを積極的に面白おかしく喋った。Kはピース、僕はセブンスターという煙草を吸っていた。湖沿い、白い煙が絶え間なく空へと浮かんでは消えていった。出会って間もない僕たちだったが、この時既に僕はKへと特別な友情を感じていた。
 
 春の期間、僕は様々なことを新しく始めた。部活動にアルバイトと、慣れない環境の中で日々は慌ただしく流れていった。僕はそうしたことに対し、強いストレスを感じていた。部屋はすぐに汚くなり、発熱をすることもあった。正直、この時期の記憶というものがはっきりしないので、Kと僕がいつ仲良くなったのかも詳細を思い出すことはできない。もしかすると、夏休みに入る前のことだったかもしれないし、そうでないかもしれない。
 そういえば、僕が煙草と酒を好むようになったのは六月のことだった。日々のストレスに対抗するように、自傷的に僕はそれを摂取するようになったのだった。初めての酒はKに買ってきてもらったバカルディのモヒートだった。休日の昼間、僕はそれを一人で飲み、酔うという経験をした。それ以来、僕はアルコールというものの虜になった。これさえあれば、自らの内に存在する暗いものに対して抵抗することができると思った。自分の中に火を灯し、それで身体を温めることができると思った。僕は昼間からも関係なく、酒を飲むようになった。そうして、堕落してしまうことが僕には心地が良かった。煙草の方は味がよく分からなかったが、とにかく身体に悪いだろうと僕はそれを吸っていた。
 夜、アルバイトが終わってからバスが来るまでの間に、待ち時間が一時間程あった。バス停は暗く、ベンチにはゴキブリがたかっていたので、暇つぶしに本を読むこともできなかった。そこで僕は、酒を飲みながら歩くという方法で、その時間を乗り越えることにした。小さな川沿いを、缶の酒を口にふくみながら、僕はひたすらに歩いた。夜の尾道は暗く、静かで、魔法のような世界だった。僕はそこで多くの言葉を自分の中に蓄えた。アルコールの中で言葉にならない詩をうたい、路地から路地へと彷徨った。今思えば、あれは夢のような時間だった。……今でもこの習慣は僕の中に残っており、夜になると酒を飲みながら何キロも歩くことがある。失われてしまった何かを求めるように、酔いの世界の中で僕は過去へと手を伸ばす。そうした時だけは、僕はまだあの魔法の夜の中を歩いているような錯覚を味わうことができるのである。
 
 春が過ぎ夏がやって来た。夏休みに入ると、僕はようやくここでの生活に慣れてきた。パン屋のアルバイトも上手くこなすことができるようになり、家事にも余裕がでてきた。Kは実家に帰り、僕はもっぱら冷房の効いた室内へ引きこもっていた。高校時代の友人が泊まりにきたりすることもあったが、それ以外は何事もなく、この暑い季節は過ぎ去っていった。
 秋になり、彼岸花が咲いた。僕は自動車学校に通うようになり、授業にアルバイト、部活に免許習得という休みのない毎日を送るようになった。しかし、なんともこの季節は美しい時間だった。秋の風が冷たい夜のことをまだ鮮明に僕は覚えている。自動車学校から帰るバスの中で見るバイパスの風景や、授業が終わった後にKと吸う煙草、六時には暗くなる湖沿いの反射する光の輝き、アルバイト終わりの夢の一時間……それらの景色がずっと、この頭の中から離れないでいる。
 そんな秋のある日のことだった。僕は授業終わりに一人の女子生徒に話しかけられた。彼女はTという名の一風変わった人物で、人目を惹くような容貌をしているが、女子たちのコミュニティには属すことなくいつも一人で授業を受けていた。そんな彼女が僕へと話しかけてきたのは音楽の趣味がどうやらきっかけらしかった。僕の好みと彼女の好みが一致していたことが理由で、彼女の方からコンタクトをとってきたのだった。
 僕たちは数分間、自らの好みのアーティストについて話をした。盛り上がったかは分からないが、言葉のやり取りをすることはできた。それよりも僕は周囲の視線というものが気になっていた。Tは目立つ存在だったし、僕もそれなりに教室では浮いた人間ではあった。それに、僕の横にはKが会話に混ざるわけでもなく手持ち無沙汰に立っていた。彼はこの後また別の授業があることを僕は知っていた。だからこそ、ここでどういった選択肢を取るかを、僕は迷っていた。
 その時だった、Kはおもむろに自らのバッグを手に取ると、別れの挨拶もなしにゆっくりと僕たちから離れ教室から出て行った。それは、おそらく僕に気を遣ったのだろうと考えられた。自分のことはいいから、Tと親交を深めたらいいと、そんな彼の声が聞こえたような気がした。僕は横目でその様子を眺めていた。目の前にはTがいた。僕はこの瞬間、大きな選択の岐路に立たされたかのように思った。友情か、それとも異性の甘い誘惑か、どちらかを僕は選ばなければならなかった。そして、僕はついに一方を選択したのだった。僕はTに別れの挨拶を告げると、Kの背中を追いかけた。校舎の中を、無我夢中で駆けた。丁度次の授業の教室へ入っていくKの姿を見つけ、僕は声をかけた。一言二言の、短い挨拶だった。しかしそれを、僕はどうしても言う必要があると思った。このままKを放ってTと話し続けることはできたが、そうしてしまったら最後、僕はKという親友を一生失ってしまうのではないかと、そんな予感がしたのだった。僕はこう伝えたかったのだ。自分は目の前の異性よりも、お前の方がよほど大事なのだよと、そう彼に言いたかったのだ。
 結局それ以降、再びTと話をすることはなかった。僕はまた、Kと二人きりで煙草を吸う日々に戻った。僕がした選択、それは間違っていなかったことを信じたい。いや……しかしどうだろうか、この後迎える結末のことを考えれば、もしかするとこの時別の未来もあったのではないか? そう今になっても考えてしまうことがある。……答えというものは、一生見つからないものなのだろう。
 
 冬がやって来た。尾道の冬は雪の降らない、寒い季節だった。
 異性の影というものが、この時期僕の周囲には纏わりついていた。その中でも、アルバイトの先輩に一人、親しくした先輩がいた。彼女は大学四年生で、卒業間近だった。ある日のこと、僕はひょんなことからその先輩とランチへと行くことになった。晴れた日の午後、僕たちはある定食屋でオムライスを食べた。そして、僕は彼女に卒業祝いのプレゼントを渡した。それはなけなしの金で買ったスパークリングワインだった。これがいけなかったのだろうか? これまたどういう話の流れでそうなったのかは分からないが、そのまま僕たちは彼女の家で飲むことになった。
 僕たちは数時間程、互いに酒を飲んでいた。夕暮れになり、散歩へと出掛けたところまでは覚えている。その後再び家へと戻り、また酒を飲んだ。そして気がつくと、僕は彼女のベッドの中に横たわっていた。彼女は部屋にいなかった。おそらく避妊用具でも買いに行っているのだろうと僕は思った。悲しみが、僕の心の底からやってきた。こうやって人は、大人になっていくのだろうか? 酒の勢いに任せて、互いを傷つけ合って、身体を重ねる。それは僕の罪だった。自分という人間の下半身に、原罪が住み着いていた。ああ、なんて自分は卑怯な手で彼女を篭絡したことだろうか? 彼女の部屋に行くということが決まった時、僕は心の中でこうなることが分かっていたのではないだろうか? そうした罪の意識が、酔いの醒めた僕の頭の中を支配した。
 僕はゆっくりと起き上がった。その時、丁度彼女が外から帰ってきた。僕は彼女の顔を見ることができなかった。僕は自分の荷物をまとめると、別れの挨拶を告げ早々に部屋から逃げ出した。暗い山道を、また酒を飲みながら歩いて帰った。空には星々が瞬き、木々は寒さに耐え震えていた。僕は宗教家ではないが、空を見上げながらキリストに向かって祈った。ああ、もう僕は異性というものに惑わされることを生涯やめてしまおう。自らの純潔を守り抜いて、花や星や、木々や宇宙を愛しながら生きていこう。人間というものは、血や肉が臭すぎて僕には取り扱うことができない。僕は……自らの原罪を否定し続けることで、生きていこう。そのように考えながら、やがて夜の湖沿いへと辿り着いた。いつものベンチに座り、一人煙草を吸った。近くに友人がいないことは、寂しかった。眠りたいと思った。しかし、眠ることはできないだろうとも思った。セブンスターの煙が、冬の暗い空へと吸い込まれていった。
 彼女に既に遠距離恋愛の恋人が存在したという事実を知ったのは、それからしばらくした後のことだった。どうにも、やりきれないと思った。人間の業というものに僕は触れてしまったのだった。酒量はさらに増え、冬が過ぎていった。無事に免許を獲得した僕は、やはりKと共に煙草を吸い、湖を眺める日々に戻っていった。そうして二回目の春が訪れた。
 
 春、僕はKと共に夜を歩き回るようになった。大量の酒を飲みながら、自傷行為にKを付き合わせた。あの頃、僕たちはよく歩いた。尾道の町を、北から南へ、西から東へ、何キロメートルも飽きずに足を動かし続けた。その途中、とある公園へと僕らはよく立ち寄った。この町には珍しい高層マンションに見下ろされたその公園で、僕たちは遊具にもたれかかって酒を飲んだ。そして、とあるバンドのPVを真似て砂場に煙草を突き刺しては、その様子をじっと眺めていた。煙草は風に吹かれながら、じわじわと燃焼していき灰となっていった。それが、僕たちの若さや、青春、消えていく衝動を象徴しているかのように思えた。煙草に灯る火種が、僕たちの内部にも同じように存在した。それは春の風に冷たく吹かれ、その身をじわじわと焼いていた。これもまた、一つの青春なのだろうと僕は思った。暗い感情が追いかけてくる時、僕たちは互いに黙った。会話はないが、それは気まずい時間ではなかった。相変わらずKはピースを、僕はセブンスターを吸っていた。二つの煙は溶け合い、夜の大気を汚していた。
 一度、千光寺の桜をKと見にいった時があった。夜、ライトアップされた桜の下で、ぼったくりのような値段のイカ焼きを食べながら僕はハイになっていた。酒を飲みながら坂道を登って、僕たちは展望台へと辿り着いた。すると、Kは急に気分が悪いと言い出した。周囲には多くの人間がいて、しゃがみ込むKは人目を気にして苦しそうだった。僕は一緒になってその場へ座りこみ、Kの体調が回復するのを待った。展望台から遠くを見渡す人々の中で、下を向いて座っている僕たちはよく目立った。じろじろとこちらに向けられる視線からKをかばいながら、これもまた一つの友情の形だと僕は思った。
 
 二年生になり、僕には何人かの後輩が生まれた。僕は学友会という組織に所属しており、その輪の中で一定の地位を築いていたが、活動自体に対して意欲は全く存在せず、一年生の春、孤独から逃げるように勢いでこの部活へ参加したことを後悔していた。
 僕は他人に対し興味が薄い人間だった。そして、他人に対し臆病な人間でもあった。しかし、学友会の中で他人と関わるうちに、一つの欲望が胸の内から湧いてきた。それは〝普通の大学生〟になりたいという想いだった。僕はこれまでの人生、幼少期からずっとアブノーマルな存在だった。だからこそ、普通というものに対する憧れのようなものがずっと、心のどこかにあった。そしてそれは、自らの過去、家庭の不和や病気を経験した境遇にも関連した想いだった。普通という言葉はそのまま、幸福という言葉へと僕の中では言い換えられた。今までずっと普通ではなかった自分は、学友会というコミニュティの中でようやく、普通というものに手を伸ばすことができるのではないかと考えたのだった。
 僕は演技をした。その演技とは、普通の大学生らしく異性に貪欲なふりをするといったものだった。後輩の一人の女子生徒に僕は目を付け、さも彼女を〝狙っている〟ような動きを僕は周囲へと見せつけた。しかし、最初はそのような自分の〝普通らしさ〟に満足していたのだが、これが一時的な快楽に過ぎないことにすぐ僕は気がついた。狙っているというだけでは、普通にはなれなかった。実際に手を出すということをしなければ、異性に貪欲な演技をし続けることは不可能だった。
 僕は彼女を一緒のアルバイト先へと入れた。そして、アルバイトが終わった後一緒に帰るという習慣もつくった。しかし、そこまでが僕の限界だった。それ以上は、演技でも踏み出すことはできなかった。一年生の冬、僕は異性というものに対して挫折した筈だった。それなのに、異性に貪欲なふりをするなんて、馬鹿のやることだった。結局、彼女とは何もない関係のまま終わった。一つ、大きな荷物を背負ったような気分に僕はなった。
 僕の演技はもう一つ存在した。それは、ぶっきらぼうな人間を演じるということだった。そうすることで、なぜか僕は普通の大学生らしくなれると思ったのだった。最初のうちは、これも上手くいったようだったが、しかしすぐに僕は自分自身を嫌いになってしまった。理由もなく偉そうで、そのくせ仕事にはやる気がなく、嫌な奴だと自分でも思った。僕は段々と、自分が後輩たちから馬鹿にされるようになったと感じていた。やはり、自分を偽ってもいいことなどないのだと僕は学びを得た。学びを得たところで、取り返せるものなどは存在しなかった。僕は普通にはなることはできず、以前よりも自分の殻の中へと、酒と共に閉じこもるようになった。学友会の集まりも頻繁にサボるようになり、頼みの綱といえばKの存在だけだった。
 
 夏休みが訪れようとした時のことだった。この地を豪雨災害が襲った。僕たちの住む尾道は二週間ほど断水状態に陥った。梅雨が終わり、既に暑い季節がやって来ていた。バスは運休になり、スーパーには水を求める人々が群れていた。僕は自転車で缶詰類を買いに山道を降り、町へとやってきていた。Kに会う気にもなれず、僕はしばらく猛暑の町を彷徨った後、また家への長い坂道を登り始めた。あの時ほど、この坂道を長く感じたことはなかった。何日も風呂に入っていない臭い身体を、坂の向こうの一点に向かって運び続けた。何か、重い鎖のようなものが自分に絡みついていると感じた。それは、あの坂道を登り終えた今でも、僕の心に巻き付いて離れなかった。……この重さは、一体なんだというのだろうか?
 
 秋冬と、何でもない季節が過ぎた。何でもない季節は、幸せな時間だった。Kと煙草を吸ったり、公園でキャッチボールをしたり、酒を飲んで過ごした。一年生の頃よりずっとふさぎ込みがちになった僕は、よく家で本を読んでいた。海外文学を、あの頃から僕は好んで読んでいた。特定の作家というよりかは、世界文学全集などのページをめくることが多かった。尾道の秋は、やはり美しかった。枯葉が湖面に溜まり、庭の金木犀が香り、夜は深かった。今でも僕は、こういった日々のなんでもない日常を夢に見る。戻りたいと、目が覚めた時そう思う。……その願いが果たされることはないだろう。今僕は病気で、コンクリートの街に閉じ込められている。
 
 また春が訪れた。三回目の春は、別れの季節だった。Kは突如として行方不明になった。実家に連絡しても確認がとれず、本人からの音沙汰もなしだった。僕は親友を失った。
 本当は、彼の家に突撃することもできたのかもしれない。しかし、僕はそうすることをしなかった。僕はKの意志というものを尊重していた。つまり、彼が絶望に耐えきれなくなったのならば、親友としてそれを受け入れるしかないと考えていた。僕たちは共に弱い存在だった。どちらかが先にいなくなってもおかしくなかった。片方が駄目になった時、僕たちはそれを許容するしかなかった。なぜなら、それが僕たちの道だったからだ。不可侵の部分で、僕たちはお互いの暗いものを抱えていた。そこへ手出しする権利などは、互いに持ち合わせていなかった。……なんて色々と御託を並べたが、本当はただ僕は怖かったのかもしれない。部屋の中で首を吊る彼の死体を見ることが、怖かったのかもしれない。だから、僕は踏み込めなかった。Kの領域に、踏み込むことができなかった。そして、僕たちは永遠に離れ離れになった。僕は一人になった。湖沿いで吸う煙草、空に昇る煙はもうセブンスターの一本だけで、ピースはどこかへ行ってしまった。ピース、平和と書くその煙草はカタカナで表記すると、欠片とも解釈できると僕は思った。僕の欠片は遠くへと塵になった。彼が生きているかどうか、今でもそれは分からない。もし生きていたならば、一つの連絡でもしてほしいものだ。僕がわざわざ、尾道市立大学出身だと書いたのもそういった魂胆にある。もし偶然、偶然彼がこの文章を読んだとしたならば、これが僕だということが理解できるだろう。……甘い夢だろうか?
 
 僕は孤独になった。その穴を埋めるように、新しい友人を僕は一人つくった。Oという名の彼女は、同じ学友会の同級生だった。Oとはこれまであまり話すことはなかったのだが、ゲームを通じて仲良くなることができた。……しかし、彼女はやはり異性だった。Kと同じような距離感で接することが、僕にはできなかった。湖沿いで煙草を吸って過ごしたり、酒を飲んで街を歩き回ったり、そういったことを彼女に望むのは無理だった。
 そうした部分を埋めたのが、創作という行為だった。学校の授業を通じて、僕は創作活動をするようになった。初めて書いた小説は、『ライター』というタイトルのもので、暗い中にも一つの火、希望が見えるような作品だった。Kを失ってから、創作というものが僕の心の支えとなった。毎晩酒を飲みながら、理性を吹き飛ばしながら、僕は言葉を自分の中に綴り続けた。
 ちなみにKがいなくなったのと同じ時期かは分からないが、一年生の秋に僕へと話しかけてきたTもいつの間にか学校を辞めていた。風の噂によると、彼女も鬱病だということだった。KもTも、この病気に苦しめられ、そして遠くへと去っていった。そして現在僕も、同じ病気に毎日を苦しめられている。………あの日の選択、Tに別れを告げ、Kの背中を追いかけた選択は、やはり……正しかったといえるのだろうか? 例えば、僕がTと仲良くなり、そこにKも加わって、三人の小さな輪をつくることができていたならば、何かが変わったのではないだろうか? 三人で支え合い、この大きな波に耐えることができたのではないだろうか? あの日、僕はそんな可能性を捨てたのではないだろうか? ……考えるだけ無駄だ。しかし、どうしても頭の中から離れないでいる。
 
 この春。僕はアルバイトを変えた。以前のパン屋から、ドラッグストアのレジ打ちになった。その理由は、パン屋時代の店長と喧嘩したことが一つだった。
 ある晩、例の一緒に帰っていた後輩女子が、金銭に関する重大なミスを犯した。それを受けた店長が、仕事内容の変更を強制しようとした。そして、その内容はある意味男女差別的なもので、僕はこれに反抗したのだった。
 彼女の前で、僕と店長は長い間口論をした。僕は、自分の声が酷く震えていることに気がついていた。それは怒りによるものなのか、恐怖によるものなのか分からなかった。いずれにせよ、自分は弱い人間だった。最終的には店長と和解したが、その日の帰り道はやはり酒を大量に飲んだ。湖沿いにつくと、もうここから飛び込んでしまいたいと思った。Kはいなかった。僕には、酒と煙草しかなかった。創作をしなければならないと思った。創作をすることで、自らの道を進んでいかなければならないと思った。
 
 夏、秋、冬、と季節が過ぎていった。僕は自分の内部に閉じこもり、酒を飲み、煙草を吸い、時には精力的に、時には怠惰に創作を続けた。僕の書くものは、どれも陰鬱で、暗いものばかりだった。周囲の人々からは評判が悪く、しかしそれでも僕は自分のスタイルを曲げようとはしなかった。Oとたまにゲームをすることで、気分は晴れた。自分は孤独を愛する人間だと思っていたが、全然そんなことはなかった。他人というものが、ただ恋しいと感じた。
 
 季節は過ぎ去り、四回目の春がやって来た。就職活動の時期だった。僕は実家へと戻ったが、しかしどの会社にもエントリーしなかった。自分は疲れすぎていると感じた。自分という人間は、社会に出て行くことはできないと思った。Kの顔が浮かんだ。結局僕も、ここでリタイアだと思った。自殺、という言葉がずっと頭の中を支配していた。
 僕は本気で自殺することを考えていた。Oに一度会い、自分の大切な本を渡した。とある雨の日に、僕は大量の酒を飲みながら、川沿いをずっと北の方へ、帰ることも考えずに歩いていった。途中までは、どこかの橋から本気で飛び込むつもりでいた。僕は昔から、自分が死ぬときは水が関係すると思っていた。とある赤い吊り橋の上から、激しい水の流れをじっと見つめ、酒を飲んだ。今なら、いつでも死ねると思った。しかし、僕は死ねなかった。いざ飛び込もうとすると、足が動かなかった。結局僕は長い時間をかけ再び家へと戻った。ベッドの中は温かく、安心して眠りにつくことができた。
 自殺することができないと分かり、僕は途方に暮れた。このまま就職をせずに、自分はどうなるのだろうと思った。Oとゲームをすることで、僕は現実から逃げた。夏が過ぎ、秋がやってきた。卒業論文を書く時期だった。僕は全てが苦しかった。大量の酒を飲みながら、僕は実家から再び尾道へと戻ってきた。
 
 卒業論文は、創作での代替が可能だった。僕の所属するゼミは中国文学だったが、無理をいって創作で卒業することを決めた。秋から冬までの数か月間、僕は中編を制作するために机へと向かった。一日に千文字も書けないような日々が続いた。この時期、僕はまるで悪魔にでも憑りつかれたようになっていた。
 大量の酒を飲みながら、何かアイデアが浮かんでこないかと僕は夜の町を歩き回った。深夜から明け方まで、様々な場所へ行き、酒を飲んだ。歩道橋の上で、Kと過ごした公園で、湖のベンチで、僕は酒を飲んで飲んで飲みまくった。
ある時僕は夜中の公園で眠っていたところを二人の大学生に起こされた。真冬の、凍えるような夜だった。僕は、このまま死んでしまってもいいと考えていたが、それは叶わなかった。またある夜、僕は夜中のトンネルでずっと壁を蹴り続けていた。そこから何かが生まれ出てくると信じているかのように、ずっと、ずっと壁を蹴り続けていた。そしてまたある夜、僕は大学へと侵入し、酒を飲み煙草を吸い、それをSNSへとアップした。これが広まって、どうか退学にでもなってほしいと思った。しかしそれも、叶わなかった。僕には知り合いが少なすぎた。
 苦痛に喘ぎながら、卒業論文の締め切り当日に、とうとう僕は一本の中編を完成させた。とても、酷い出来だった。よく卒業が認められたと思った。そして、残りの日々を僕は静かに過ごした。最後にヘッセと堀辰雄を図書館で借りて読んだ。そうして、僕の四年間は終わった。実家へ戻る頃には、僕は灰のようになっていた。
 

 
 Kといる間、僕は幸福な大学生だった。Kと離れてからも、ある意味では幸福だったといえるのかもしれない。僕は自らの道に従い、そして壊れていった。今ではKやTと同じように、鬱病患者として苦痛の毎日を過ごしている。僕は暗いベッドの中で、この四年間の幸福を追憶している。ここに書かなかった辛い記憶もたくさん存在するが、なるべくそれらから目を逸らして、僕は過去の輝きにしがみつく。道は前だけでなく、後ろにも続いている。そこには、甘い煙の残香が漂っている。
 ……ピースは去り、セブンスターだけが残った。そしてセブンスターも燃えつき、後には灰が風に吹かれるだけである。これで、僕の思い出話も終わりだ。最後に何か言うことがあるとすれば、Kについてのことだ。もし生きていたら、連絡の一つでもよこしてほしい。他愛のない話でもして、どうか今の自分を笑ってほしい。……それだけを願って、この文章を閉じることにする。