ギャングスター_ラップの歴史_帯なし

権利を奪われた者たちが生んだ偉大なるアートフォーム~『ギャングスター・ラップの歴史』より「まえがき」をためし読み公開

 過酷な社会環境に屈しないハングリー精神、リアルな言葉、優れたビジネス感覚でアメリカを制した“ストリートの詩人”=ギャングスター・ラップの歴史をたどる一大音楽絵巻『ギャングスター・ラップの歴史 スクーリー・Dからケンドリック・ラマーまで』(ソーレン・ベイカー著、塚田桂子訳・解説)が好評発売中です。今回は本書より「まえがき」全文をためし読み公開します。ぜひご一読ください。

『ギャングスター・ラップの歴史』はじめに

文:ソーレン・ベイカー、訳:塚田桂子

 1980年代半ば、ギャングスター・ラップにはまだ名前がついていなかった。しかし実際、それを聴いた誰もがその可能性に気づいていた。

 当時、メリーランド州郊外で育つプレティーン〔訳注:13歳未満、特に8~12歳の子どもを指す〕の僕が新聞で読んだり、夜のニュースで観たストーリーを、ギャングスター・ラップは思いもよらない方法で現実にした。アメリカの黒人が住む都市を荒廃させる暴力について堅苦しく客観的なレポーター(大抵は白人男性)が詳しく話すのを見聞きする代わりに、ふと気づくと僕は、スクーリー・Dやアイス・T、ブギー・ダウン・プロダクションズ、ジャスト・アイス、イージー・E、N.W.Aを聴いていたのだった。彼らは、不作法で悪びれない態度でギャングや銃、暴力、ドラッグ、セックス、傷害といった生々しい成人向けのストーリーを語り、新しいスタイルのラップを作り出した。

 1980年代後半にギャングスター・ラップと呼ばれるようになったこのラップは、アメリカの都会の紛争地帯に暮らし、取り囲まれていた当人によるストリート・レポートとして始まり、ギャングバンガー〔訳注:主にライバルギャングとの紛争などの活動に参加するギャングのメンバー〕やその周りの人たちの生き方が注目されると、すぐに人気が爆発した。権利を奪われた若い黒人男性の集団による、一般的に冒涜的で、概して洞察力があり、時にゾッとするようなこれらのストーリーによって、僕はアメリカの残虐な人種差別の遺産に大きく開眼し、また僕が愛していたほかのラップより、いっそう心に響く魅惑的な音楽に支えられた新しい世代のストリーテラーたちを僕に紹介した。ギャングスター・ラップは、大衆文化ではほとんど見かけず、めったに論議されない現実を語った。

 1985年の“Nightmares”と1987年の“Cinderfella Dana Dane”が史上最高のストーリーラップの2曲として広くみなされている、ニューヨーク州ブルックリンの革新的なラッパー、デイナ・デイン曰く、ギャングスター・ラップは1980年代にニューヨークと音楽業界で一世を風靡したという。「俺たちにはハードコア・ラップがあったけど、インナーシティやフッドのライフスタイルを最前線に押し出すことに関しちゃ、ギャングスター・ラップはさらに深く追求していったんだ」とデイナ・デインは言った。「ラジオでかかりやすい音楽をやってた俺やソルト・ン・ペッパみたいなヤツらは、自分たちはまだ環境に適応しようとしていたのかと考えさせられたよ。リスクが増したんだ」

 1980年代後半の時点までにラップ唯一の推進力だったニューヨークのラッパーたちは、ギャングスター・ラップの波が南カリフォルニアから出現したことで、この文化のリーダーとしての地位を追われる用意はできていなかった。彼らはまた、ロサンゼルス大都市圏のギャングに関わるライフスタイルを反映し、強烈さ、暴力、冒涜、性的関心のギアを急激に上げた、この新しいタイプのラップの重要性に気づいていなかった。

ギャングスター・ラップの歴史_帯あり

 80年代半ばに東海岸(イーストコースト)で育った僕は、間もなくニューヨークのアーティストや(数年後になって)ニューヨークを拠点にしたジャーナリストが典型的にもつ、ニューヨークの5つの行政区出身ではないラップに対する文化的偏見に気がついた。僕はまた、ひとたびラップを区分けするこうしたラベル付けが、ストリート・ラップ、ハードコア・ラップ、リアリティ・ラップから、ギャングスター・ラップへと進化すると、ラップ・アーティストのあいだに隔たりがあることに気づいた。

「俺たちはそのとき、その文化を理解していなかったんだ」とデイナ・デインは僕に話した。「それがどこから来たのかもな」

 この馴染みのなさは軽蔑を生んだ。確かに、フィラデルフィア、ロサンゼルス、マイアミ、ヒューストン出身の初期アーティストは、ニューヨークのラッパーが音楽に用いたサウンド、スタイル、粋をよく真似たが、アイス・T、イージー・E、N.W.Aのおかげでギャングスター・ラップが商業的に軌道に乗ると、そこには隔たりがあった。これらのいわゆるギャングスター・ラッパーは、いわばリリカルな身のこなしではなく、フッドの物語を重要視していたために、他のラッパーからより劣ったアーティストとして見られていた。ゆえにギャングスター・ラッパーは、事実上、権利を奪われた者の中でもさらに権利を奪われた存在となってしまった。

 そのような理由もあり、ギャングスター・ラッパーと名づけられたロサンゼルスのハードコア・ラッパーに対する認識は、ニューヨーク勢とは異なっていた。クール・G・ラップ、ファット・ジョー、ザ・ビートナッツ、モブ・ディープは、ギャングスター・ラッパーと同じスタイルや主題を取り入れたが、彼らはロサンゼルスのギャング文化についてラップしなかったために、多くのアーティストやジャーナリスト、ファンから、ギャングスター・ラッパーとしては見られなかった。またこれらニューヨーク・ラッパー勢は、自分たちをギャングのメンバーだと思い込むこともなければ、外界からそのように受け止められることもなかった。

 確かに、ロサンゼルス出身ではない「ギャングスター」、「ストリート」、「リアリティ」、または「サグ」ラッパーは、ギャングバンギン〔訳注:主にライバルギャングとの紛争などのギャング活動〕そのものよりむしろ、大抵はギャングスターの全般的な人格や伝統的な習慣、犯罪的なライフスタイルについてラップした。ゆえに僕はこの本で、以下のアーティストやレーベルを大きく扱いながら、西海岸アーティストに焦点を合わせた。ザ・ゲトー・ボーイズ(ヒューストンを拠点に、西海岸(ウエストコースト)が音楽で権勢を振るい始める前に登場し、自分たちをギャングスターと呼び、ギャングスター・レーベルの代表、ジェームス・プリンスの指揮下で活動した)。マスター・Pと彼のノー・リミット・レコーズ(所属アーティストがギャングのようなユニットで活動し、自分たちをギャングスターとして宣伝しながらも“闘士”(ソルジャー)として扱い、ギャングスター・ラップのスーパースター、スヌープ・ドッグを含み、カリフォルニア州リッチモンドを拠点とした)。50セント(ニューヨーク地区出身にもかかわらず、ドクター・ドレーやザ・ゲームと共に活動し、Gユニットという自身のクルーをもち、 有名人の名前を挙げて知人のように言いふらし、特に“What Up Gangsta”などの数曲でロサンゼルス・ギャングについてラップした)。また、繰り返しその音楽がサンプリングされ、そのリリックやフロウがノトーリアス・B.I.G.からニッキー・ミナージュまで、あらゆる人に取り入れられてきたスクーリー・Dについて特化した章を盛り込むことも、僕にとっては重要なことだった。多くの人たちは、このジャンルはN.W.Aかドクター・ドレーが始めたと思っているが、ラップの事情通のあいだでは、スクーリー・Dがギャングスター・ラップの創始者として知られている。何より、スクーリー・Dやアバヴ・ザ・ロウのようなあまり有名ではないアクトから、アイス・Tやマスター・Pのような広く認められている先駆者まで、この音楽を推し進めてきた主要人物たちについて書きたかった。

 この本を執筆しているときに、プラチナレコードを出したギャングスター・ラップ・グループ、ザ・イーストサイダズのひとりで、僕にとって友人であるビッグ・トレイ・ディーがしてくれたギャングスター・ラップについての説明が、僕にとってバロメーターの役目を果たしてくれた。「俺たちがギャングスター・シットを始めたわけじゃないし、ギャングスター・ラップを始めたわけでもない。でも俺たちが推し進めて支持するライフスタイルや、ギャングスター界全般にとってのLA、俺たちの声が、自分をGとか、ギャングスターとかって呼ぶ今の多くの若者たちの人生を形成してきたんだ」

 だから、クール・G・ラップやファット・ジョー、ザ・ビートナッツ、モブ・ディープ、ウータン・クラン、ジェイ・Zのようなニューヨークのラッパーや、クリーブランドのボーン・サグスン・ハーモニー、マイアミのトリック・ダディ、メンフィスのエイト・ボール&MJGやプロジェクト・パットなどほかの多くの人たちも、ギャングスター・ラッパーと呼べるかもしれないし、一部の人たちにはそうみなされている。僕が言いたいのは、彼らはみな非常に才能があり、成功したアーティストではあるけれども、ギャングスター・ラップそのものを形成したり、方向を変えたりはしなかったということだ。僕がこの本で重点を置いたアーティストたちは、それを成し遂げた。彼らこそがこの本の核心であり、その言葉、音楽、スタイル、ビジネスが、このジャンルを形成したのだ。

 僕はまた、音楽そのもののストーリーに狙いを定めたかった。誰が重要なシングル、アルバム、プロジェクトを作ったのか? なぜそれらのアーティストや彼らが作ったアートが注目に値するのか? 彼らの音楽がどのように次世代のアーティストやジャンルを進化に導いていったのか?

 だからこそ、僕はこのジャンルに影響を与えた音楽とビジネスに焦点を置くことに、多くの紙幅を割いている。これらは、これまで詳しい状況が伝えられていない、彼らがいかに創造的、かつ商業的に交わってきたかを明らかにする、欠くことのできない、知られざる物語なのである。

G人物相関図

 ひとりのファンとして、音楽は僕にとって常に大切なものだった。だからこそ、『ギャングスター・ラップの歴史』では、ギャングスター・ラップの軌道を変えた特定のもの以外は、ビーフやディス・レコードについて深く掘り下げて研究していない。それが理由で、たとえば、2パックとノトーリアス・B.I.G.の対立関係や、アイス・キューブとN.W.Aのビーフについては取り上げているが、ウエストサイド・コネクションとサイプレス・ヒルとの確執については詳しく調査していない。最初のふたつは、作られる音楽とラップ・ミュージックのビジネスの展開方法に劇的な変化をもたらした。その一方、後者は巧妙で力強い曲をもたらした以外は、それほどの変化をもたらさなかった。

 1980年代半ばにギャングスター・ラップが始まって以来、いかにギャングスター・ラップが音楽からファッション、映画、ひいてはアメリカ文化全体にわたるすべてに影響を与えてきたかについて、僕はより広い視野を養うのに十分な時を過ごしてきた。運良く、僕はギャングスター・ラップの幼少期にリスナーとファンの時代を過ごし、ロサンゼルス・タイムズ紙、ザ・ソース誌、シカゴ・トリビューン紙などで24年以上ラップ(そしてギャングスター・ラップ)について書いてきたジャーナリストとして、その生みの苦しみ、生々しい感情、才気の閃きを目にしてきた。ケンドリック・ラマーやYGのようなコンプトンの人気アーティストや、“Bodak Yellow”の曲名とリリックでブラッズ〔訳注:ロサンゼルスを拠点とする、主にアフリカ系アメリカ人のストリートギャングで、赤がシンボルカラー〕に敬意を表したニューヨーク州ブロンクスのラッパー、カーディ・Bの作品を通して、僕は今日も続く知性とカオスのバランスが成長する姿を長年にわたって目にしてきた。ギャングスター・ラップが極めて重要であり続けているのは、この音楽にインスピレーションを与えた社会環境がいまだに存在するからだ。

 僕はこの本の中で、それらの社会環境や、この偉大なるアメリカのアートフォームがいかに彼らの中から浮上し、上昇し続けるかを探求していく。読んでくれてありがとう。


ソーレン・ベイカー
2018年4月

(転載にあたり、画像および動画を追加しています)

ギャングスター・ラップの歴史_帯あり

《書誌情報》
『ギャングスター・ラップの歴史 スクーリー・Dからケンドリック・ラマーまで』
ソーレン・ベイカー著、塚田桂子訳・解説
B5・並製・280頁
ISBN:9784866471020
本体2,500円+税
https://diskunion.net/dubooks/ct/detail/DUBK251

目次
まえがき
序文 文:イグジビット
第1章 アメリカの息子
第2章 引き金をひけ
第3章 喧嘩腰の黒人たち
第4章 革命はテレビ中継される
第5章 アイス・キューブ——“ギャングスタ流おとぎ話”
第6章「これがご挨拶だ」——ギャングスター・ラップ、『スカーフェイス』とザ・ゲトー・ボーイズに出会う
第7章 俺の名前はギャングスター・ラップだ
第8章 夢のカリフォルニア——ドクター・ドレーの余波
第9章 世界を制したスヌープ・ドギー・ドッグ
第10章 レコード上でのギャングバンギン——やだな、来ちゃったよ
第11章 Gファンク、モブ・ミュージックに出会う
第12章 間近に迫った死——いわゆる東西抗争
第13章 俺のせいじゃねぇ——マスター・Pとノー・リミットの革命
第14章 ドクター・ドレーとスヌープ・ドッグの再燃——中傷者に送る“アップ・イン・スモーク”
第15章 お前の命は危険にさらされている
第16章 カネで大人になった少年
エピローグ――30歳を迎えたギャングスター・ラップ
謝辞
解説——アメリカの東西海岸を知る訳者が読む、ギャングスター・ラップの苦節の歴史(マラソン)とウィニングラン(ヴィクトリーラップ) 文:塚田桂子


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?