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右翼と左翼、勤皇と逆賊

勤皇心なき「新選組」

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幕末の昔、会津藩が京都警護の戦力を確保する為に浪人や郷士を集めた組織が新選組であった。

彼らは「本物の武士」になれるチャンスと獅子奮迅の働きを見せた。新選組による池田屋事件によって維新は数年遅れたとも言われる。

しかしながら、会津藩と同じように新選組もまた勤皇佐幕の士に変わりはなかったのである。

故に「れいわシンセングミ」なる者達は新選組を名乗るに値しない野盗に等しい存在に過ぎないのである。

日本に右翼と左翼はいるのか

いわゆる「ネトウヨ」になった頃、よく見ていた動画です。今となっては「右翼」「民族派」を在日朝鮮人の偽装などと差別的な陰謀論も混ぜ込んだミスリード動画で、しかも「在日右翼」の見本として紹介されている画像が鳥肌実氏や重遠社、日本学生同盟の流れを汲む民族派団体の「超国家主義『民族の意志』同盟」だったりとツッコミどころ満載の動画です。

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確かに在日韓国人の方々が右翼団体に参加していたことは事実です。

しかし、それは戦前の大東亜戦争時より朝鮮人は大アジア主義のもと戦争に尽力していた(石原莞爾中将の東亜連盟には後の極真空手の大山倍達氏など朝鮮人も多く参加していた。)歴史、戦後の冷戦の中で北韓(北朝鮮)に対抗する共闘の歴史があったことを無視している。また、右翼団体に参加したアジア主義的、勤皇的在日・帰化朝鮮人と反日・反天皇カルト統一教会の政治部門「国際勝共連合」も分けて考えるべきである。統一教会関係なく右翼活動に挺身した在日朝鮮人・帰化朝鮮系日本人がいたのである。

その辺の難しい歴史的経緯は理解し難いので、「右翼は朝鮮人」などと差別的な陰謀論に走れば、はるかに簡単だ。だからネトウヨの歴史観や主張は薄っぺらいのである。

閑話休題

この動画では佐幕派を右翼、倒幕派を左翼と規定している。私も以前はこの説明に納得していた。

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しかし、今では違っていると思う。

右翼・左翼とはフランス革命に由来する括りである。フランスの事例を安易に日本に当てはめて良いのか。

私は自分の立場を問われれば便宜的に「反米新右翼」「民族派ファシスト」だと答えるが、本当は余計な修飾語ではないかと思う。

日本においては、右翼・左翼の括りは必要ではなく、勤皇か逆賊かで十分ではないか?

ファシストでも社会主義者でも自由主義者でも宗教保守でも勤皇の志があれば、話は出来るし意見をぶつけ合って摺合せすることも出来よう。

しかし、天皇を否定する共産主義者や無政府主義者、カルト宗教、あるいは天皇よりもカネを至上の価値観とするような資本家とは話にならない。

維新と勤皇

幕末維新の戦いとは勤皇佐幕と勤皇倒幕の戦いであった。

どちらも天皇の為、日本を守る為に刀を抜いた。

しかし、あえて言えば倒幕派の勤皇論に異義を投げかけたい。

先述した池田屋事件によって潰えた謀略とは御所に放火し、混乱に乗じて孝明天皇を長州に拉致するというものであった。

また、池田屋事件に激高して京に進軍し、天皇に直訴しようとした。この際、「勅命に非ざれば動くべからず。」を信条とする真木和泉守はあくまで勅許に拘ったが遂に適わず、長州軍は畏れ多くも宮城に向けて発砲する暴挙に出た。

この長州藩の行動が勤皇に値するか否かは議論の余地があるだろう。

この行動の論理は「皇祖皇宗の大御心」は「今上の大御心」に優先する場合もある。という点にある。

それは、二・二六事件や宮城事件にも通じる。

窮民救済・財閥打倒の尊皇討奸こそが大御心に叶うと信じ、勅命により討伐された磯部浅一は「何というご失政か。」と天皇に恨み言を唱え、畑中健二、椎崎二郎は「天皇の意図に反してでも國體護持の徹底抗戦」を行うことが皇祖皇宗の大御心に沿う道だと決起した。

承詔必謹か國體護持かという問いかけは勤皇論の永遠のテーマであろう。

さて、二・二六事件や宮城事件ですら宮城に向かって発砲はしなかった。その「暴挙」が禁門の変だった訳で、だからこそ是非はともかくとして結果的に二・二六事件、宮城事件は失敗し、明治維新は成功したのかもしれない。

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別冊「維新と興亜」の中で、クリストファー・スピルマン教授は五・一五事件について「捨石」たらんとした青年将校には、明確な政権奪取の計画は無く、経験に欠けた青年将校には「革命にはズルさ」が必要だったと説いている。

ある意味その「ズルさ」を持っていたのが明治維新における薩長であった。卑怯かどうかと言われれば薩長はかなり卑怯な手を使っている。幕府軍に「最初の一発」を撃たせる為に江戸で相楽総三を暴れさせるなどした。その点を語る論客がどれだけいるだろうか。

また、建武新政の立役者であり武人の忠節の模範である楠木正成こそはゲリラ戦術の元祖であり、その兵法は神武天皇に通じると影山正治先生も説いている。※

場合によつては、思ひきつて大きく退却し(略)大廻りをして、思ひもよらん敵の側面か背後をついてゆけ。案外、劣勢を以て大敵をうち破り得るものだ。この場合は退くことが眞に進むことになり、廻り道をすることが本當に急ぐことになる。神武天皇がそれを實踐され、大楠公がその兵法を用ゐられた。

※ https://twitter.com/gudogoroku/status/1571679275014836225?t=J7bFnm5SqKKR1ubWmO1D-w&s=19

また、昭和維新において維新成就の可能性があったとすれば皇道派と統制派が一致団結することであった。

皇道派には政権奪取のプランはなく、「自分達が捨石になれば、後に続く者が政権を取る」というともすれば無責任なものであったが、統制派にはクーデターあるいは、合法的な政権奪取の計略があった。

しかし、皇道派の相沢三郎は統制派の永田鉄山を斬ってしまったのである。

皇道派と統制派を薩摩と長州に比するならば、遂に同盟は成立せず、土佐や肥前に比すべき海軍や民間の右翼との連携も不十分で、血盟団事件(民間人)、五・一五事件(海軍主体+若干の民間人と陸軍軍人)、神兵隊事件(民間人主体+若干の陸海軍人)、二・二六事件(陸軍主体)と各個がバラバラに戦った結果、どれも貫徹されず昭和維新は未完に終わったのである。

しかしながら、より本質的な問題は昭和維新派は遂に勅命を得られなかったことにある。

昭和維新を呼号した者達は「天皇機関説」を排撃した。しかし昭和天皇御自身は天皇機関説を支持しておられた。

また、二・二六事件で「君側の奸」扱いされた忠臣を殺害されて激怒なされたのである。

ここに禁門の変に通じる、勤皇論と実際の行動における矛盾が介在しているのである。

さて、取り留めもない右翼・左翼論、勤皇論の結語として、残念ながら私は結論を出せるほどの論考を尽くせた訳ではないし、この先も結論を出せることはないかもしれない。

恐らく、他の右翼、民族派、保守を自負する勤皇家達であっても論は尽きることないだろう。

しかし、これだけは言える。天皇を中心とする國體は永久不変であり、天皇の大御心のもとに国民(臣民)は平等なのである。

私達は、この君民一体の國體を守る為に、あらゆる逆賊と戦わねばならないのである。

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