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作品と俺たちの感情

あんたは芦原妃名子さんが亡くなられたってニュースを見たかい?

セクシー田中さんの原作者である彼女の突然の訃報はドラマを楽しんでいたヒトにとっては衝撃のニュースだったと思うんだよね。
特に自らの命を手放してしまったってのは、「なんとかならんかったか」って思うわけじゃんか。

なんか色々な意見が飛び交っているけれど、芦原妃名子さんにも色んなコメントが投げられていたってのもあるのかもしれないね。

ワリカシ今回のこの悲劇に対しての発信を眺めていると、「原作を改編するなんてひどい」とか、「テレビ会社が、いの一番に責任逃れのコメント出すな」とかって意見が見えるんだよね。

それを見て思ったのよ。

そんなにシンプルにこの出来事を捉えて良いんだっけ?ってさ。

今回は作品が世の中に広まるということについて考えてみる回だ。

ちっと物語を作るってことについて考えてみようぜ。


物語を届けるヒト

まず最初に書いておかんとならん気がするので書いてみる。

俺はセクシー田中さんの原作マンガは読んでいないんだ。
その上で、ドラマのセクシー田中さんは、結構楽しませてもらったってのが感想としてあるんだよ。

ぶっちゃけ、生見愛瑠さんの演技力をなめてたって思ったよ。
すごくね?あの演技。
※突破ファイルでしか知らんかった

でさ。
そんな風にあのドラマを心底楽しんでいたんで、原作者である芦原妃名子さんとドラマ製作陣にいざこざがあったなんて全然知らなかったんだよ。

あんだけ楽しませてくれた物語が俺たちの手元に届くまでに、どんだけのヒトがもがき苦しんでいたのか。
そんなことを思ったんだよね。

0から物語を作るヒト

で、今回の悲劇。
俺もね。自分で小説書いたりしたことがあるから、自分が作った物語に対しての思い入れとかってすごく共感できる気がするんよ。

いや、もちろん商業ベースに乗るような多くのヒトが味わうようなものは書いた経験はないから、全然別物だってあんたに言われたら、「その通りでございます」って言うしかないんだけれどさ。

まあそれでも作品を作るってことの苦しみとか喜びとか。
そういう感情が浮かび上がってくるってのはものすごく自然なことだって思えるわけよ。

でさ。
この作品を作るってのは、なにも原作をこさえたヒトだけじゃないんだよな。

確かに原作者のヒトが一番物語に対して思いを込めているってのはあるんだと思うんだ。
なにしろ、ホントに0から物語を作り上げるんだ。
そこにめちゃくちゃ思いが込められているってのは想像に難くないじゃんか。

でもさ。
それでもさ。

自分の命を捧げて物語の整合性をとる。
それが彼女の本心からの意図だったとする。

それは悪手じゃんか。
なぜって?
だって、芦原妃名子さんの作品を読みたいと思っているヒトたちはどうすればいいんだ?

もう田中さんの行く末を知ることは俺たちは絶対に出来ないんだぞ。

物語に関わるってこと

そんな喪失感をからだの中に感じてだ。

改めて俺たちが日々している発信ってのを考えてみるわけよ。

例えば俺がね。
なんかの都合で発信をやめたとするじゃん。

それで、楽しみにしてくれているヒトがガッカリするとするじゃん。
いや、まあそんなん俺の都合のいい妄想かもしれないけれどさ。

言いたいのは「誰かに期待されている」ってことと「誰かの期待を裏切る」ってことは表裏一体なんだってことね。

これはなかなかの恐怖だと思うんだよ。
そして、この恐怖ってのは原作者だろうが、脚本家だろうが、すべての物語を世の中に提供するプロセスに関わっているヒト全員に言えることだと思うんだ。

だからさ。

今回の悲劇に対して原作者や脚本家、ドラマ制作に関わっていたヒトを安易に否定するってのは、どうしてもダメだと思うんだ。

もちろん原作者とドラマ製作陣の間で齟齬があったってのはホントだと思うよ。
そして、その齟齬の原因にドラマ製作陣側の行動があったってのもあると思う。

でもさ。

その誰かのミスをモニタごしに正義を振りかざしながら否定することで、この悲劇ってもう起きないようになるのか?

その正義は、また新たな悲劇を産み出すだけじゃないのか?

俺たちはこの悲劇の迷宮から抜け出す努力を続けないといけないんじゃないか?

なあ、あんたはどう思う?

俺たちは「誰かが悪い」以外の出口をどうやって見つければ良いんだろうな。

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