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俺たちの中の『俺たち』

あんたは解離性同一性障害って言葉を聞いたことがあるかい?

いわゆる多重人格って状態のことを指すものなんだけれど、俺の今までの経験で明確にそれっていうヒトを認識したことはないんだ。

小規模な統計をアメリカでとったことがあるらしいんだけれど、ざっくり1.5%くらいのヒトが抱えている障害ってことらしい。
結構デカい数字だよな。

治療によって人格が統合されていくようなこともあれば、統合の必要性があまりない場合は各人格の協調を促すみたいなこともあるらしい。

よく、強いストレスによって人格が生まれるみたいなケースが表現されるけれど、それだけじゃなくて、物心つく前の2歳とかから人格が複数発生するケースもあるらしい。

いやはや、自分だったらどうすれば良いのかわからないのと同時に、どうやってヒトとして付き合っていくのが正解なのかも難しい。

例えば3人の人格を持っているヒトがいたとしてだ。

3人のヒトの人格を尊重したいと考えるわけだけれども、ある人格を尊重しようとして発言や行動をしたとしても、それが別の人格にとっては侮辱ととられるようなことがありうるってことだもんな。

今回は俺たちの人格ってやつについて考えてみる回だ。

ちっと俺たちのアイデンティティってやつを見つめなおしておこうぜ。


人格を複数持つってこと

いや、それこそフィクションだとさ、多重人格ってのはワリカシ普通に出てくるキャラクター性じゃんか。

幽遊白書だって出てくるし、遊戯王だって出てくる。
仙水好きだったなぁ。

いや、もう完全に想像の世界だけれどさ。
おそらく、友人や恋人として付き合う感じまでは対応することが出来るヒトも結構いる気がするのよ。

一人の友人で何人もの友人を手に入れる感じだろ?
そのヒトの中にいる人格と自分が気が合うかどうかって話だもんな。

ただ、さっきの動画に出てきているヒトみたいに80人とかいたら、その個別の人格をちゃんと見わけをつけることって結構難易度が高いよな。

そのヒトと付き合うヒトの難易度もそういう難しさがあるわけだからさ。
本人の人間関係の難易度と言ったら想像もつかない難しさだよな。

いろんなタイプがあるらしいけれど、複数の人格で情報を共有するためには、自分の中でほかの人格と会話をしなきゃならないケースもあるんだっていう。

まるで、家族との会話のごとくにだ。
家族の会話でも共有できない情報ってのはあるわけだ。
言語での情報共有ってのは個人の経験を共有するためにはあまりに不完全だ。

そんな不完全なコミュニケーションが物理的な個人の中で発生する。

そいつは、想像するだけで地獄だな。

俺たちの人格を眺める

じゃあさ。

俺たちの人格ってのがあるわけじゃん。

俺たち自身は俺たちの人格を「こういうヒト」って表現を出来るか?

俺だったら「理屈屋で頑固者」みたいな表現は出来るかもしれない。
でも「ロマンティスト」なんて表現をしてもらったこともある。
もしかしたら「泣き虫」なんてこともあるかもしれない。

そんな俺に対するいろんな見方があるってのは納得する。
ただ、俺の感覚だけれどさ。
俺の中には俺しかいないんだよ。

俺の人格に対してそういう多面的な見方がありうるってのはめちゃくちゃ腑に落ちる。

そして、その多面性はその時の状況によっても見え方が違うし、その時の感情によっても変わってくる。

解離性同一性障害を持つヒトってのは、そういう人格の多面性×人格の数ってパーソナリティを持つってことなんだよな。

気分が上がっているときの内向的な人格と、気分が下がっているときの社交的な人格ってのが同じヒトに内在するわけだ。

なんつーの?
想像するだけで、そんな状況は肌が粟立つような感じがするわけよ。

しかも、そんな状況は俺にもあんたにもいつ何時起きてもおかしくない状況なんだよ。

必ずしもストレスによって起きることじゃないんだもんよ。
予防方法がないんだ。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちは俺たちの中にある人格という何かについてどう考えていけば良いんだろうな?

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