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自由と幸せと

あんたも香港のメディアが中国全土の流行り病の感染者数が中華人民共和国当局の発表とエライ感じで違ってたってニュース見たかい?

850倍以上の開きがある。
これが情報の流通にある程度の多様性がある国だったら、お互いの主張の違いに対して自らの数字の正当性を主張し合うことで真実ってやつがあぶり出されるってことになるんだろうけれど、中華人民共和国の人民のみなさんはその真実ってのを手に入れる方法がない状態に追い込まれているってことなんだよな。

とか言いながらも、俺たちだって正しい情報を手に入れているって言い切ることは実のところ難しい。

今回は情報ってやつの扱いづらさについて考えてみる回だ。

ちっと俺らがさらされている情報の海ってやつについて考えてみようぜ。

情報統制をされている国を目の当たりにしてみる

まずは現実的に中華人民共和国と言う国があって、そこでは自由な言論が妨げられているってのが現実だと俺たちは思っているじゃんか。

実際にいろんなニュースで中華人民共和国の中で、実に多くの言論弾圧が起きているって話を聞き続けている。
象徴的な歴史としては天安門事件とかだよな。

あの事件を始めとして、香港での言論統制のニュースとかを俺たちは見ている。
その結果として「中華人民共和国という国では自由に発言する事が出来ない」って思っていると思う。

なんとなくだけれども、それは真実を含んでいる感覚だとも思う。
それと同時に、それは日本という環境が俺たちに強いた感覚なんじゃないかとも思ったりもする。

何が言いたいんだって?

つまりはだ。
俺たちは正確な情報を手に入れる方法として、「自由な言論」が必要だと思っていると信じているけれど、それってホントか?ってことだ。

いや、言葉がちっと不正確だな。
「自由な言論」ってやつをホントに俺たちは持てているのかってことだ。

自由って何か

そもそも自由ってなんなのか。

とりあえずコトバンクに聞いてみた。

どうやら「束縛を受けないこと」らしい。

でもそれってさ。
無政府状態が究極の自由ってことか?

無秩序による弱肉強食の世界ってのがヒトが自由を手に入れた世界ってことになるのか?

なんか、違和感がある。
ってか嫌じゃんか。そんなん。

そう考えると「自由」ってのは、必ずしも俺たちの「幸せ」につながっていないってことか?

なら「自由な言論」なんてものは必要じゃないのか?
俺たちが幸せになるためには。

自由を求めている俺たちの感覚

仮に俺たちの「幸せ」と「自由」ってのがつながっていないとしてだ。

それでも「自由」に何かを語れないって状況を俺たちは許容できるのか?

多分出来ない。

なぜか?
俺たちがそう育ってきたからだ。

それと同じことが世界中にある独裁国家の人々にも言える。

そう育ってきたから「自由」ってものが忌むべき存在だって考えている。

俺たちが自由を尊ぶように、自由によってもたらされる混沌を悪として認識する価値観ってのはあり得る。

多分、その2つの価値観ってのは水と油の様に混じり合うことは無いような気がする。
ってことはなにか?

俺たちヒトってのは理解し合うことが許されない生き物ってことなのか?

俺たち。
あいつら。

そうやって永遠に「他者」を作り続けていくしか無いのか?

そんなのさ。
そんなの悲しすぎるじゃんか。

自由という争いの源

とは言えだ。

俺の自由は誰かの自由を奪うって現実がある。

少なくとも資本主義を前提とした世界観では、俺の自由を保証する為には資本が必要で、その資本を手に入れるためには多分多くの搾取ってのが必要になる。

つまり、俺の自由は誰かの自由の犠牲があって初めて成り立つってわけだ。

これは逆の立場でも言える。
俺の自由を搾取すれば誰かの自由が手に入るってカラクリだな。

そう考えると自由ってのは争いの源って話になる。

ところが独裁が良いのかって話になるとちっと違う。
何しろ独裁はたった一人のヒトに「自由」を与える方法だもんな。

ならさ。
もう、AIのようなシステムに「自由」を明け渡すくらいしか思いつかない。

ものすごく嫌悪感が俺の中に生まれる考え方だけどね。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちはどう考えていけば「幸せ」を手に入れられるんだろうな?

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