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「やっちゃいな」というエラー

あんたも秋田の教師の問題発言のニュースを見たかい?

ちょっと意図が読み取りにくいニュースだよな。

おそらくだけれども、この教師のヒトは教育上必要だと思って意図を持って発言している様に見えるんだよ。

でも、その意図ってのを言葉にして想像することがたまらなく難しい。

ニュースの言葉を読み取っていくだけだと、単純にこの教師の指導能力に問題があるとしか感じることが出来ないわけだけれども、この教師の意図ってのを言葉にしてみるってのは、俺たちにとってなんか意味を持つ気がしないか?

今回はこの教師の発言について考えてみる回だ。

発言を紐解くことで、俺たちの中にある教育に対する思いってのを形にしてみようぜ。

「やっちゃいな」という発言

多分、このニュースで一番問題視されるであろう発言がこの「やっちゃいな」発言だと思うんだ。

詳しい経緯は報道されていないけれども、どうやら子どもたちの鬼ごっこでトラブルがあったときの教師の発言だったそうだ。

なんだろう?ぶつかっただのなんだのでモメてたんかな?

「やっちゃいな」発言は子どもに暴力による制裁を加えさせることによって、その制裁を加えられた児童にも教育的な価値があるって思ったってことなんだよな?

それってどういう状況があり得るんだろう?

鬼ごっこ中に、子どもがふざけて他の子どもを叩くとか倒すとかしてたとして、それを「やめろよ~」とか言いながら続けていたけれども、全然その悪ふざけが止まらないでトラブルになっていたって感じ?

仮にその状況だったときに、教師としては同じことが起きてもキチンと子どもたち同士で和解に至るように指導することが求められるわけだけれども、そのための方法として暴力による報復が最も効果が高いってこの教師は判断したってことなんだろう。

言葉による教訓を得ることの難しさ

いやいやいや、これってさ。
正解無くね?

ガキンチョ同士が遊びの中でじゃれ合いがトラブルになるのなんて日常茶飯事じゃんか。
一応定石な大人の対応としては、お互いの言い分を聞いて、その言葉をお互いに咀嚼させて、どう思うかを言葉にさせて、解決策を子どもに考えさせるってことだと思うんだけれども、誰もが自分の気持ちを言葉に出来るわけじゃないから、子どもたちがお互いに理解を深め合うってのは結構な難易度だ

俺たちオッサンが子どもの頃はまだ体罰的なものが容認される状況だったから、俺たち子どもは間違いを痛みという教訓として学ぶことが出来た。

子どもにとっては言葉による苦しみよりは痛みによる教訓のほうが受け取りやすいってのは確かにあるとは思うんだ。

だって、言葉をしっかりと使えるようになる前の状態なんだもんよ。
使えるようになる訓練をしている最中なんだもんよ。

そうなると、このトラブルを解決するよりも前に言葉の訓練としてお互いの意見を言葉にさせるってことになる。

仕方がないことなんだけれども、トラブルの実態である子ども同士の人間関係のこじれそのものには効果的な手を打てないってことなんだよな。

暴力を教師が容認することの問題

それでもこの教師の子ども同士で暴力を使わせたってのは悪手中の悪手だと思う。

なんて言っても、子どもたちにとって教師は「正義」そのものなんだ。
その「正義」の名のもとに暴力が肯定されたって経験は、人格形成のためによくない影響を及ぼすってのは想像に難くない。

でもその悪手は実行されてしまった。

そこにはどんなシステムエラーがあったんだろう?

痛みという教訓が子どもにとって必要だという判断がこの教師にあったとして、その判断そのものが間違いってことなんだろうか?

それとも教師が自分の権威によって子どもに暴力をふるわせたことが問題なんだろうか?

ここは意見が分かれるところだと思うけれども、両方とも問題ではあるという前提で、より問題なのは「権威によって子どもに暴力をふるわせた」方だと思うんだよ。

これによって子どもたちは「正義の暴力」ってものを学び取ってしまうと思うからね。

この悲劇を生みだしたのは何なのか?

多分だけれども、これってSNS上での誹謗中傷と通づるところがあると思うんだよね。

俺たちはもう少し「正義」ってものについて深く考えて置く必要があるのかもしれないな。

なあ、あんたはどう思う?

この教師はどうすれば間違わずに済んだんだろう?

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