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俺たちが生きているってこと

あんたは生きるってことに何かを感じることがあるかい?

読ませてもらった記事の中に伊藤ぱこさんのこんな記事があったんだ。

一言で言うなら、「あんたは生きてて良いんだよ」ってことなのかな?

そこは全く持ってその通りだと思うんだけれど、俺たちはどうやって「生きていて良い」と自分を認めることが出来るんだろう?

こんなシンプルな話なのにだ。
そこにシンプルな言葉を紡ぎ出すのってのは容易じゃないって現実がある。

今回は生きるってことに対する感情を考えてみる回だ。

まあ、ちっとわけがわからんくなる感情の世界に足を踏み入れてみようぜ。

生かされていると言う現実

まずもってだよ。
俺たちは一人の力で生き延びていない。
こいつは揺るがしようがない現実ってやつだと思うんだ。

必ず誰かの力を借りて生き延びていると思うんだ。
しかもその力を返しているとは限らないと思う。

仕事だってそうだろ?
自分の出来ないことを誰かがやってくれている。
もちろん自分が出来ることで誰かが助かることもあるだろう。

でもそいつは等価交換ではないと思うんだ。

仲間から受け取る価値と、自分が与える価値ってのには常にアンバランスな何かが生じるってのが普通だと思う。

そのアンバランスなことはたぶん当然なんだよな。
だって、そもそも価値ってもんを評価するのは俺たち自身なんだもんよ。

そしたら、その価値ってもんの意味はヒトによって異なるし、なんなら時間によっても異なる。

ヒトの行動についての価値を絶対的に評価できるように俺たちは作られていないってことなんだよな。

そう考えるとだ。
俺たちは損得勘定で生きているってわけじゃないってのが根っこにある様に感じないか?

誰かに喜んでもらいたい。
誰かの助けになりたい。

そんなんが俺たちの行動原理の根っこ何じゃないか?

そんな感情がお互いを生かしている。
そんな感覚があるんだよな。

ヒトの評価とヒトへの評価

そんなふうにさ、俺たちはお互いの「喜ばせたい」だの「助けたい」だのという感情で生かしあってるわけだ。

そう考えるとだ。
その相手の感情ってのを確かめたくなっちまうのはしょうがない感情だよな。

ところが相手の感情なる何者かは物理的に確かめる術がない。

感情ってのを客観的に計測できない。
そのことは俺たちは「認められている」ってことを確信出来るようには出来てないってことを示している。

なら、俺たちは永久に誰かから認められるって栄光を感じられないままに生きるしか無いのか?

たぶんだけれど答えはYESでありNOでもある。

なぜって?
だって感じるのは俺たちであり相手なんだもんよ。

俺たちは俺たちがどう評価されているのかってのを感じ続けている。
同時に俺たちを見ているヒトも同じ様に俺たちのことを感じている。

その感じ方は絶妙な感じでベクトルがズレているってのが現実だと思うんだよ。

もしかしたら、そのベクトルのズレってのはものすごく大きな辛さみたいなのを生み出しているのかもしれないけれどね。

生まれるって事

でね?

ぶっちゃけ、この「他のヒトと自分の評価のズレ」ってのは実にデッカイ不幸感を生み出すもんだと思うんだよ。

それこそ「そもそも生まれてこなければ良かった」とか思っちまうこともあると思うんだ。

いや、現実的に考えると生まれてくることになんの価値があるのか?って言われたら、言葉に詰まる感じがしないか?

生まれてこなければ幸せも不幸も感じること無く、ただ平穏に「無」を堪能出来てたんじゃないか?

そう言う考え方を持つヒトは一定数居るってことみたいなんだけれど、そのヒトたちを否定できる言葉を俺は今のところ持っていない。

「そうかもなあ」って共感する部分があるからね。

その見方で考えると俺はただ単純に俺の遺伝子を未来につなぎたいと言う実にエゴイスティックな感覚で息子をこの世に呼び寄せたわけだ。

でもさ。
俺は同時にこうも思うわけよ。

息子にも「生かされている」って感覚を感じてもらいたいってさ。

あんたにもあるだろ?
「嬉しい」って感じる瞬間がさ。

その感情を受け止める事。
それが俺たちが生まれてきた意味だと思ったりするんだよな。

なあ、あんたはどうだい?

俺たちが生まれてきた意味。どうやって言葉にしてみようか?

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