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アツくなる責任

あんたにはアツくなれるものってのがあるかい?

こんな記事を読ませてもらったんだ。

そらさんはちょいちょい読ませてもらっているんだけれど、その度になんか刺さる言葉をくれるんだよな。

今回の言葉は「アツくなる」だった。

おおう、なんつーか半世紀も生きていると忘れがちになるけれど、俺たちの中には確実にこのアツい感情ってのが沸き上がる瞬間ってのがあるんだよな。

そらさんの書いてくれている仕事でのアツくなることがどういうことなのか?とか、俺が書いているnoteでアツくなるってのがどういうことなのか?とか。

実際のところは、なんでアツくなるのかってのを説明することは困難を極める。

俺自身なんでアツくなるのか分からんし、なんでアツくなれないのかも分からないんだもんよ。

あえて言うなら、のめり込む魅力をなんかの形で感じた状態で、その感情に伴った行動を否定されたときに感情的になるって感じかもな。

今回はアツくなるって状態について考えて見る回だ。

まあ、誰だってアツくなることはあるんだもんよ。
その影響ってのを考えておこうぜ。

アツくなるってどういう状態か

まず最初に整理しないといかんと思ったのが、そもそもアツくなるってどういう状態なんだってことなんだよな。

俺のシンプルなイメージだと好きなことに感動したり、その感動を
共有することで共鳴したように感情が増幅されたり、逆に感動を否定されたことで自分の感情を守りたくなったりってことだよな。

要するに感動にまつわるのめり込んだ状態ってのが入口ってことだよな。

その入口の先に誰かからの否定が入った場合には「アツくなるなよ」と言う言葉が出てくるし、誰かからの行程が入った場合は「アツいよな」って言葉が出てくるってことだよな。

アツいことのリスクとリターン

たぶんだけれども、あんたのイメージの中にも「アツいヒト」ってのがあると思うんだよな。

そのヒトの周りにはどんな状態が生まれている?

否定するにせよ、肯定するにせよ、そのヒトのことを無視することが出来ない状況が生まれている気がしないか?

そうなんだよな。
感情を抜き身で構えているようなヒトがそばにいたら、それを無視することなんて難しいわけだ。

その感情と言う刃が自分に向かっているのか、他人に向かっているのか。
その刃が前から向かってきているのか、横で同じように構えられているのか、はたまた後ろから自分を狙っているのか?

いずれにせよ、「アツいヒト」を俺たちは無視することが出来ない。

アツいヒトがそばにいるってこと。
自分がアツいヒトであること。

そのどちらのケースでも「アツいヒト」であることはリスクとリターンの両方にさらされるのは避けられないことなんだろうな。

アツくある覚悟

最初に書いた通り、アツくなることの入口は感動と言う感情だと言うのが正しいとしてだ。

その感情が最初に生まれたことは、そのヒトには制御出来ないわけだ。
感情はヒトにはコントロール出来ないからね。

問題はその感動の向こう側にある「アツくあり続ける意味」ってやつだよな。

感情は本質的に一過性のもんだから、「アツい」状態を維持するのには意思が必要になる。

仕事だったら「この仕事オモロイじゃんか!」から始まってそのオモロさを仲間に伝えたとする。
その結果、仲間も同じようにオモロイと思ったとする。

その瞬間にオモロイと伝えたやつのアツさには責任が生じる。

意思をもってアツくあることには責任があるんだよ。
それが敵としてでも仲間としてでも。

だとすればだ。
感動と言う感情から始まったことに責任を感じながらアツく生きるってのをどうやったら出来るんだろう?

仲間に対してはそのアツさによって引っ張っていく責任を。
敵に対しては、扉を開けば自分のことを「待ってくれている」七人の敵に誇れる存在である責任を。

そんな責任なんて負いたかないって?

でもさ。
多かれ少なかれ俺たちはなんかしらでアツい存在である事が求められているんじゃないか?

なあ、あんたはどう思う?

俺たちは求められているアツさをどうやって持ち続けることが出来るんだろうな?

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