見出し画像

時代の変化と俺たちの価値

2020年という年がやってくる。

あんたは2020年と2019年にどれだけの違いが生じると思う?

技術革新がどれだけのインパクトを与えるかって想像をするにつけ、今までは考えつかなかったようなことが起きる可能性がある。

AIひとつとってもそうだ。
俺たちはすでにGoogleを始めとする検索エンジンのアルゴリズムに自分たちの判断を委ねている。

俺たちはたまたま入った店で出てきた料理がうまかったという幸運を喜ぶ時代から、予め他人の評価を前提として料理を食べるってことが当たり前になったという変化をもう少ししっかりと考えるべきなのかもしれない。

今回は、俺たちの生活で起きている変化について振り返ってみる回だ。

俺たちはどこに向かって歩いているのか。それとも走っているのか。もしくは走らされているのか。
ちっと考えてみようや。

自由主義という世界観に生まれた親の世代

俺たちの親の世代が生まれたのがちょうど大東亜戦争が終わった1945年ころだ。

生まれた瞬間に帝国主義から自由主義への変化が起きた激動の世代だよな。まあ、帝国主義って別に自由主義と相反しているわけではないけれど、時代を表現するのに丁度いい感じだ。

その激動の中にありながら、親の世代の子供時代って言うと、びっくりするくらい情報の流通量が少なかった。

テレビも家庭に普及していないし、ラジオだって戦後のゴタゴタの状況でまともには普及していなかった。
それでも数少ないラジオから流れる「リンゴの唄」をみんなして聴いていた。

数少ない情報をみんなで共有して、「戦後復興」という同じ世界観で生き抜いてきた世代。
それが俺たちの親の世代ってことなんだと思う。

大量生産からの脱却を体験した俺たちの世代

俺たちの子供時代はまさに大量生産の恩恵にあやかった時代だった。

ありとあらゆるモノが大量生産され、それはテレビというマスメディアの台頭によって、消費を促されてきた。

みんなが「志村!後ろ後ろ!!」ってテレビに向かって話しているような子供時代だったよな?

同じコンテンツを楽しむって文化は同じものを消費することにつながって、大量生産という土壌を完全に後押しする「1億総中流」という世界観を作り上げた。

俺たちはそんな世界観で子供時代を過ごしていた。
当然、俺たちが大人になるころも同じようにみんなで同じように豊かになっていくってことを特に理由もなく信じていた気がする。

ところが、俺たちが大学を卒業する頃。その革命は起きた。
インターネットだ。

インターネットの出現とバブル崩壊が同時期に起きていることってのは、偶然の一言で済ませるにはあまりにも運命的な響きを持つ。

バブル崩壊により、景気が縮小するとともに、より効率性ってやつが注目されることになった。
より良いものをより安く。そんな価値観が世間を席巻していった。

その効率性を支えたもの。それがインターネットだった。

生活する方法の変化

人々は試行錯誤という方法からネットで正解を検索するという方法へまるで水が高いところから低いところへ流れるように自然に移行した。

この移行が意味することを俺たちはもう少し考えておく必要があると思うんだよね。

試行錯誤は俺たちが「何かをしたい」という主体性の結果としての方法論だと思う。
対して、正解を検索するという行為は「失敗したくない」という消極的な俺たちの意思の現れのような気がしないか?

この俺たちの意識の変化って結構な革命だと思う。

俺たちはあまりにも大量の情報に晒された結果、自分の主体ってやつを見失ってしまったってことだもんな。

2020年という時代

2020年は5Gの実用化に伴って、今までとは比べ物にならないくらいの情報通信量になることが想定される。

情報の流通量の増加がもたらすもの。そいつは俺たちから主体性を奪うことになるってのは歴史が語ってくれている。

俺たちは俺たちの意思で行動するって意味を更に見失うことになるだろう。

俺たちの意思に俺たち自身が価値を見いださなくなった時、一体俺たちは俺たちを本当に必要だとどうやったら思えるんだろうな?

なあ、あんたはどう思う?

俺たちは来年、俺たちの価値を何だって定義出来るんだろうな?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?