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物語が産み出す共感

あんたも昔に見たコンテンツを見返すようなことがあるかい?

この間、たまたま「ヒカルの碁」がいつも使っているどうが配信サービスであるhuluで見られるのを見つけて、ためしに息子に見せてみたんだよね。

そしたら、まあオモロイってんでモリモリ見はじめて、あっつーまに全75話を駆け抜けちまったんだ。

はは~ん、さては昔のコンテンツでもいまの子どもたちは普通に楽しめるってことか?

今回は昔のコンテンツが今の子どもにどう受け入れられるのかについて考えてみる回だ。

まあ、俺たちが楽しんだ要素がなんだったのかってちょっと考えてみようぜ。

ヒカルの碁の何を俺たちが楽しんだのか

改めて考えてみる。
なんで俺たちはヒカルの碁ってのがオモロイと思ったんだ?

だってさ、普通に考えてみると、囲碁なんて生活で触れたこともないようなボードゲームじゃんか。
ぶっちゃけ、いまだにルールを正確に語れるのかって言われたら、「ごめんなさい」って謝っちゃうくらいに複雑なゲームじゃんか。

今ですらそうなのに、そのときの俺なんて、絶対ルールを把握できていなかったはずだ。
にも関わらず、俺たちはあのマンガに夢中だったと思うんだよな。

まるで格闘の試合を見るようにヒカルの碁の対局を読み込んでいたと思うんだ。

「うお!跳ねた」
とか
「つけたな。手堅い」
とか
「おお!初手天元か!」
とか訳もわからずに呟きながらさ。

真剣であるという魅力

息子と一緒にヒカルの碁を鑑賞していて思ったことがある。

たぶん、このコンテンツは囲碁という現実で楽しまれているボードゲームを通じて、そのゲームに真剣に向かい合っているヒトの物語なんだってことだ。

ぶっちゃけ、この真剣に物事に取り組むってのはめちゃくちゃオモロイ。
仕事だって、真剣に取り組むからこそオモロイ。
遊びだってそうだ。

俺たちは自分の意識がそこにすべて注がれているような状況を好ましく思っていると思うんだよね。
そう思うだろ?
なんだって夢中になって取り組んでいる状態ってのは俺たちを確実に幸せにしているじゃんか。

そして、その幸せを噛み締めているヒトを目の当たりにしたとき。
俺たちもまた、その幸せを体験させてもらえている気になる。

例えばさ。
なんかの博物館にいったとするじゃんか。
そこには、悠久の歴史のなかで紡がれてきた文化の片鱗が目の前にある訳なんだよな。

明らかに魂を込めて作られたんだと思われる人形だったり、仏頂面を抱えながらこつこつ作られたことが思い浮かぶようなオルゴールだったり、その存在に価値を見いだすことができた瞬間に浮かべた笑顔を想像できるような鉱物サンプルだったり。

確実にそこにある「モノ」にヒトが注ぎ込んできた感情ってのが宿っているように感じられるわけだ。

その感情を注ぎ込まれたモノを通じて俺たちが感じる物語。

多分だけれども、ヒカルの碁から今の子供たちが感じていることも同じ要素があるんじゃないかな?

つまり、ヒトがヒトであり続けた物語ってやつだ。

物語を通じて世界を共感する

この物語ってやつは実に多くの感情を俺たちに与えてくれている。

そこからなにかを学ぶこともあるし、シンプルに物語を楽しむこともある。

ポイントはアニメとか映画とかの視覚と聴覚を刺激しながら物語を伝える手段ってのは技術的な変遷を経てでも違う世代に対してなにかを伝える力を
持ち続けているってことなんだと思ったんだよ。

ヒカルの碁なんて、アニメが放映された当時はテレビの画面サイズの規格から違っていたので、今見ると不自然に画面の両脇にスペースがあるわけだけれども、そんなことを気にする様子もなく息子はヒカルの碁という作品を楽しんでいる様子だった。

考えてみれば、小説だったりマンガだったりという物語を表現する方法ってのはアニメやゲームの様にいろんな表現方法が発展しても滅びていない。
それは本質的にヒトという生き物が物語を追い求めているからこそってことなのかもね。

物語を味わうことで、その同じものを見ているヒトとの会話が生まれる。
もしかしたら、日本のアニメが世界的に受け入れられているってことで、共感という平和にとってもっとも重要なものが産み出されているのかもしれないよな?

なああんたはどう思う?

俺たちは物語という共通の体験を通じて、お互いを尊重する世界を手に入れることができると思うかい?

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