上と下と
あんたは「誰かよりはまし」って感覚をもったことがあるかい?
俺たちは日々の生活をものすごく頑張ってこなしているよな。
それ故に俺たちは色んなことに救いを求めちまうってのがあると思うんだ。
誰かに励まされたいとか。
誰かに褒めてもらいたいとか。
それはものすごく自然な感情なんじゃないかと思うわけだ。
その上で、俺たちは同じ様にものすごく自然にこんなふうに思ってしまう。
自分より下にあのヒトがいるから大丈夫。
今回はこの上下って感覚について考えてみる回だ。
ちっとばかり醜い感覚を掘り起こすことになると思うんだけれど、付き合ってくれよな。
下の立場と言う存在
そもそも、なんでこの「下」って存在が俺たちを安心させる要素があるのか?
冷静に考えると俺たち以外の誰かがどんな状況にあろうとも、俺たちの生活ってほとんど変わらないって思うじゃんか。
でも「あのヒトよりはマシ」って考えるタイミングが0じゃないってのも事実だと思う。
なんで、こんなに俺たちは自分と誰かを比べているんだろうか?
多分だけれども相対的な自分の価値ってのを感じる事ができるからってことなんだろうな。
ヒトという生き物はびっくりするくらいに弱い。
自分自身に生きている価値が無いと感じてしまったなら、どれだけ資金的に生き延びる方法があったとしても自らの命を断ってしまう選択をしてしまう。
例え、その行動がどれだけ周りのヒトを悲しませる現実を引き起こそうともだ。
それほど、自らの価値を自己認識するってことは俺たちにとって命綱とも言えるほどのことなんだと思うわけだ。
その自らの価値ってものを証明する手段としての「下」の存在。
悲しいけれど、これはヒトという生き物が背負っている宿命みたいなところはあるんじゃないかって思うわけだ。
自分の価値を成立させるもの
ところがだ。
この「下」という存在は客観的に観測できることはレアだ。
例えばあんたの上司があんたよりも給料が上だとする。
そうだとして、あんたは上司にすべての面で「下」なのか?
そいつは証明が困難なことだと直感的にわかるじゃんか。
価値観ってものがそもそもインターネットによってめちゃくちゃ多様化している中で、そのすべての価値観において「上」であることも「下」であることもありえないと思うじゃん?
じゃあさ、誰かより「上」とか「下」とかで自分の価値を実感するのって土台無理がある感覚だと思わね?
だってどの軸で上とか下とか言うのかってことすら共有することが難しいんだもんよ。
「あいつはすげー!」ってあんたが思っても、隣の誰かは「どうでもいいやつじゃん」って思うなんて普通に起きることだ。
じゃあ、自分の価値ってやつをどうやって作り込んでいけば良いんだって話だよな。
なりたい自分
結局の所「なりたい自分」にどうやって近づいていくことが出来るのかって話になってくるんだよな。
なりたい自分ってのが形になっていれば、その目標に対して今の自分はどこにいるのかってのを計測する手段が考えられる。
億万長者になりたい!ってのがあんたのなりたい姿ならシンプルに貯金額が到達度合いになる。
まあ、そのなりたい姿ってのはもうちっと掘り下げがあっても良い気はするけれどさ。
なんでって?
だってそのお金を何に使ってあんたの幸せが手に入れられるんだってのがわかんないからね。
例えば美味いものが食べたいなら、億万長者になるよりも前に美味いものを食わせてくれる店の情報のほうが大切じゃんか。
意中の異性と恋仲になりたいなら、そのシチュエーションづくりとお互いの心の理解の方が大切じゃんか。
なりたい自分さえ明確にできれば、そこへの道筋はワリカシシンプルに出来ると思うんだ。
ところが、このなりたい自分ってのを明確にするってのが一番むずかしい。
あんたもそうだろう?
なりたい自分は「これ」ってのを言葉にできているヒトは大体そこに向かって突っ走れているから、その状態そのものが「幸せ」だと思う。
もしあんたがその「幸せ」を感じることが出来ていなくて、「あいつよりマシ」って感覚を持っているなら、そいつはもしかすると負のスパイラルにハマってしまっているのかもしれない。
それは「目的」というゴールに向かう作業ではなく、「下」という永遠に落ち続ける底なし沼でもがく作業になるもんな。
なあ、あんたはどう思う?
俺たちは、その底なし沼から抜け出すことが出来るんだろうか?
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