「加害者」のケアの難しさ

あんたの身の回りには子どもがいたりするかい?

我が家には今度小学4年生になる息子がいるんだ。
親の俺に似て繊細な感覚を持っていると思うんだけれども、その分友達とつるんでなんかやるみたいなことが苦手なように見える。

#自分で繊細とか言っちゃうやつ

今どきのニューノーマルな世界だからかもしれないけれど、我が家に友達を連れてくるなんてことは、今まで数えるくらいしか無い。

そんなことを感じている中で、とあるnoteが俺の目に飛び込んできたんだ。

今回はそのnoteについての感想をつらつらと書いてみる回だ。

ちっと俺の感情の動きに付き合ってくれよな。

残酷な言葉

今回、このnoteを書くきっかけをくれた記事がある。

なかなかに刺激的なタイトルだよな。

詳しくはくまさんのnoteを読んでみてほしいんだけれど、起きたこととしては息子さんの机に「死ね」と落書きされていたってことらしい。

いやいや、マジか。
自分の息子が同じ目にあったら俺はどんな行動を起こしてしまうんだろう?

あまりの怒りに血の気が失せていくような感覚に襲われるような気がしてならない。

でも、そんな怒りに任せた行動が生み出すものなんてありはしないってのを俺たちは経験則で学んでいるわけじゃんか?

だとしたら、今の俺たちに出来ることってやつに思いを馳せていくのが大切なんじゃないかって思ったんだよね。

「死ね」と誰かの机に落書きする動機

くまさんのこの記事を読んでまず思ったのが、「なんで『死ね』なんて落書きしたくなったのか」ってことだった。

子どもたちは色んなシガラミがまだ少ない状況なので、感情をストレートに表現するタイミングが多いんじゃないかと思うんだ。

だとするとくまさんのお子さんに対して「怒り」を感じたってことだと想像できるよね。

で、きっとその「怒り」を感じた理由なんてものは「死ね」って書いた子どもにとってはどっかにすっ飛んでいってしまっているんじゃないかな。
あんたにも記憶があるだろう?
ケンカのきっかけをすっからかんに忘れちまってケンカしているって状態だけが残るって経験。

大人になると、再発防止ってやつを意識するタイミングは増えるとは言え、理由を忘れたケンカを100%抑止できる気はしないじゃんか。

子どもならなおさらだと思うんだよね。

多分この「死ね」って書いた子ども(だと思う)も時間が立てば立つほど「なんで」が消え去っちゃうと思うんだよ。

子どものケアとして必要なこと

思うんだけれど、この「死ね」と書かれてしまったくまさんのお子さんへのケアは絶対に必要なことだと思う。

で、同時に「死ね」と書いてしまった子どもへのケアをやっていかないと、誰も幸せになれないような気がしてならない。

だってそうだろう?
「死ね」って落書きする心理状態って絶対に健康的じゃない。
つまりその健康的じゃない状態を放置することで、更に不健康な状態を作り上げちまうのは想像に難くない。

そうなると、さらなる不健康な状態がまた別の子どもに矛先を向けてしまうかもしれない。

「死ね」と落書きしてしまった子どもも、それが良くないことだってのは理解している可能性が高いと思うんだよね。
それでもやってしまった原因を周りの大人が紐解いてあげる必要があるはずなんだ。
でなきゃ、この悲劇は繰り返されるばかりだもんな。

でも「死ね」と書いてしまった子どもは名乗り出ることは無いだろう。
だって「悪いこと」だって分かってやってるわけだから。

「死ね」と書いた子どもを救う

結局の所、この「死ね」と書いた子どもをきちんとケア出来ない限りはこの悲劇は繰り返されちゃうとして、どうしたらそれができるんだろうか?

大前提として「死ね」と書いたことをしっかりと大人に叱ってもらう。
怒るんじゃなくてね。

でも子どもにとって「叱られる」ってのは何よりも苦痛を伴うことだよな。
その苦痛を和らげるものって何があるんだろう?

やっぱり、叱るヒトが叱られるヒトをしっかりと愛しているって状況なんだろうな。
そしてそのことを叱られるヒトがキッチリと理解できる状況。

……そんなの大人同士でも難しい。

教育現場ではそんな無理ゲーが日々繰り返されているってことなんだろうね。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちはそれでも教育を諦めずに取り組んでいく勇気をどうしたら持てるんだろうか?

この記事が参加している募集

note感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?