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物語がくれるものと物語を紡ぐ意味

あんたにも家族がいるかい?

自分を育て育んでくれた家族。
自分とともにいてくれることを選んでくれた家族。
そして、自分の言葉を自分の基盤にすることが運命づけられている家族。

俺たちは実に多くのヒトの影響を受けながら育ち、実に多くのヒトに影響を与えながら生きている。

受けた影響も、与えている影響も正しいなんて免罪符を受けることも出来ずに俺たちは今日も生きている。

今回は自分が受けてきた影響を考えながら自分が与えてきた影響を考えてみるって回だ。

少しさ。
考えてみようぜ。
俺たちの命の意味ってやつをさ。

道端に飾られた花束

あんたも自分の生活の中で見る道端にある花束ってのを見たことがあるだろう?

「ああ、ここでどこかの誰かが亡くなったのか」

そう思うやつだ。
そこで俺たちの中には「かわいそうに」という感情が起きるかもしれない。
もちろんなにも感じないってこともあるだろう。

どちらにせよ、大抵の場合はその失われたかもしれない命についてどんな人生の物語があったのかなんてことに思いを馳せることはないと思う。

なぜか?
そのすべての命に思いを馳せていることに俺たちの心は耐えることが出来ないからだ。
俺たちは全ての命が紡ぎ出す物語を受け止められる程には頑丈にできていない。

だからこそ、様々なフィクションにその悲劇を背負わせることで俺たちは正気を保っていられるって思うんだよ。

フィクションに押し付けているモノ

例えば、さっき書いた道端の花束。

その花束はどんなヒトにむけて贈られたものなんだろうか?

もしかしたら、近所の飲食店で日々おいしい物を作って、評判の店の店主だったのかもしれない。

そのヒトが提供する料理で笑顔を取り戻すことが出来たヒトも多くいるのかもしれない。

それと同時に、その花束は決別の意味を持っていたのかもしれない。

日々、家族に暴力を振るっているヒトで、「いなくなってよかった」って本気で思われたヒトかもしれない。

そして、そのいなくなってよかったと思っているヒトは自分のことを責め続けている生活を送っているのかもしれない。

そして、もしかしたらその花束は体裁のためだけに捧げられているのかもしれない。

いてもいなくてもどうでもいい。
そんな感情で組織の体裁を保つためだけに捧げられているのかもしれない。

そのどのケースでも、俺は涙が出てきちまう。
いろんな「なんでだよ!」が俺を責め立てる。

大切だった命。
疎まれた命。
不要だった命。

そのどの命も俺の心を揺さぶる。
なんでだよ。
そう揺さぶる。

そして、目の前に現実としてある道端の花束に俺は物語を紡ぎ始める。
なんでだよ。
その思いをフィクションに押し付けてしまう。

このヒトはこうだったのかもしれない。
そのヒトはこんな思いを抱えていたのかもしれない。

そんなフィクションでカリソメの納得を手に入れようとしてしまう。

物語が与える心への修行

でもだ。
フィクションが与えてくれるものは「逃げ」だけじゃない。
実に多くの「仮定」も与えてくれる。

もし、こうなったらどうするのか?
もし、こうなったらどう感じるのか?

実に多くの想像を俺たちに与えてくれる。

そしてその仮定は現実に起きてしまういろんな課題を考える基礎になってくれているとも思うんだ。

宇宙戦艦ヤマトを見ていなかったら、広島と長崎で起きてしまった原爆での悲劇を受け止められていたか?
ガンダムを見ていなかったら、ソ連崩壊に伴う悲劇を受け止めることが出来ていたか?

俺たちは数多くの物語によって、現実の悲劇を事前に「経験」させてもらっていると思うんだよ。

現実は物語のように劇的には進まない。
でも物語よりも深く大きな悲しみを生み出すことは普通に起きている。
そして、同じ様に深く大きな喜びも現実は生み出している。

だからさ。
俺たちは物語という教科書から悲しみも喜びも学べるはずだよな。

なら俺たちは物語を紡ぎ出す必要があるはずだ。
これから先の命が学ぶ切っ掛けをつくるためにも。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちはどうやれば今ある悲劇と喜びを後世に伝えていくことが出来るんだろう?

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