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創作に対する否定

あんたはSNSで攻撃されていることがあるかい?

俺はSNSと言うとTwitterとfacebookをやっているんだけれども、Twitterについては鍵アカウントしかつかってないし、facebookも結構限られたヒトとしかつながっていない。

noteもつながっているヒトは限定的だと思う。

そういう理由もあるんだろうけれど、俺自身はあんまりSNSでイジメというか否定されることそのものがあまりない。

まあ、普段の俺のnoteを読んでくれるあんたなら、「あ、こいつを否定するとめんどくさいやつだ」って思うかも知んないけれどね。

今回はヒトの発信に対する感想を述べることについて考えてみる回だ。

ちっと俺たちの感情が動く原因について考えてみようぜ。

発信者の発信への感想

まず「発信に対する感想は攻撃になりうる」ってことなのかってことだった。

俺自身はたとえ否定的なコメントでもコメントもらえたらめちゃくちゃ嬉しいんだよ。

って言うか、もらったコメントを否定的って感じたことがあんまりない。

意見が違うことは当然ある中で、その意見の違いそのものが俺の世界を広げてくれるって感覚がでかいんだ。

何より、自分の意見と違う意見ってのは俺が考えている世界観と違う世界観を描き出してくれるしね。

でも小説のようなコンテンツを表現してくれているヒトの発信はちっと意味が違ってくるようにも思える。

俺みたいになんかしらかの理屈を文章にするのとは違って、小説のような創作系の文章は好き嫌いってのがわりかし明確に出てくるって話なのかもしれない。

そう言う意味では、小説やマンガみたいな創作系の発信をしているヒトは勇者ってことかもしれないな。

誰かの「嫌い」を受け止める意味

でさ。

そもそも、誰かしらかの「嫌い」を受け止める勇気を持つってのはなんか意味があるのかって思い始めるじゃんか。

例えば俺の場合は結構な頻度で政治系のnoteを書いたりしているわけだけれど、当然政治系の話になると意見の違いってのは起きるもんだと思う。

俺ごときの話に食って掛かるヒトはなかなかいないんだけれど、それでもコメントくれるヒトは明らかに「意見」を持っているヒトなんだよな。

その否定的な「意見」は俺の中には無い感覚があるわけで、めちゃくちゃ参考になることが多いと思うんだ。

でも小説やマンガのような創作物に対する否定的な意見はどうなんだろう?

学生時代に小説を書いていたこともあるんだけれど、創作活動ってのはある意味では魂をぶつけるような行為だとも思う。

むき出しの心をそのまま文字にするような行為と言えるかもしれない。

理屈という武装を完全に脱ぎ捨てた状態で世の中という戦場に降り立つような感覚なのかもしれない。

そんなむき出しの魂を否定的な意見で表現されたら、そら傷つくわな。

でもその否定でも肯定でも受け止める覚悟を持つこと。
それが創作って行為なんだろうな。きっと。

過去の創作の挫折を振り返る

そう言う創作について考えていたら前にこんなことを書いていたことを思い出した。

絶妙に中途半端な感じになっているけれど、ちっと自分でもなんか創作してみたいって欲求だけはあったことを思い出す。

ご近所戦隊サンバイザー。

我ながらセンスを感じるぜ(自画自賛)。

まあ、当然ながらプロット状態のままだから反応もへったくれも無いんだけれどね。

なので、創作活動を通じて誰かから否定をもらった経験ってのが俺には無いんだ。

なので、いろんな媒体で様々な否定をもらっているヒトの気持ちを厳密な意味では理解できているとは言えないんだろうな。

ってか、そんな風にいろんなヒトの意見が集まる状態ってのは俺にとっては殿上人の世界だからな。

なあ、あんたはどう思う?

多くのヒトに読まれるための発信を目指しながら、その先にある多くの否定ってのを俺たちはどう想像していけば良いんだろうな?

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