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自由と自己という虚構

あんたは自由に何かを選択できているかい?

俺もわりかし好き勝手に俺の人生ってやつを過ごしていると思っていたんだけれど、どうやらそれは虚構ってやつらしい。

俺たちの行動は、当たり前だけれど脳が身体に指令を出すことで起こされる。
右手を動かせ。左手を動かせ。
そのすべての司令は脳から出されている。

では、その脳をコントロールしているのは誰なのか?

今回は、俺たちの自由ってやつについてあれこれと考えてみる回だ。

自由ってのが何なのか?
一緒に考えてみようや。

自由って言葉を振り返る

とりあえず、言葉について考えるわけだから、自由って言葉の意味から振り返ってみよう。

自由とは、他からの強制・拘束・支配などを受けないで、自らの意思や本性に従っていることをいう。
出典:Wikipedia

強制・拘束・支配を受けない状態ときたかね。

こう言うことを感じないで日々を過ごしているやつってレアなんじゃないか?
俺たちは、日々をいろんな制約を感じながら過ごしているもんな。
あるときは納期、あるときは品質、あるときはコストだ。

それらの制約に拘束されていないやつなんて、この世に居ないよな。

まあ、百歩譲ってそこは良いとしよう(良いのかよ)。

問題は「自らの意思や本性」ってやつだ。

自らの意思

自らの意思って何だ?
例えば、「今日は牛丼食いたいねぇ」って思うことが自らの意思か?

確かに牛丼を食べたいから食べるってのは自由に聞こえるよな。
でもちっと考えてみようぜ。
俺はなんで牛丼を食べたいと思ったんだ?

糖質制限ダイエットで米を食べていないからか?
雑誌で吉野家のV字回復の記事を読んだからか?
キン肉マンを雑誌で立ち読みしたからか?

色んなきっかけがあると思うが、そのいずれにおいても「俺は牛丼を食べたいと思うぞ」という意思はない。
つまり、俺は牛丼を食べたいって願望を俺の意思によって呼び起こしてはいないってわけだ。

自分の願望は糖質制限をしていたり、雑誌を読んだり、漫画を読んだりという外的刺激か、もしくは全くのランダムに呼び起こされる。

外的刺激にしてもランダムにしても、そこに俺たちの「意思」というものは介在する余地はない。

俺たちはたまたま受けた外的刺激か、全くのランダムによって俺たちの願望ってやつを呼び起こされているってのが現実らしい。

自己という虚構

俺たちの感じていることや行動は、外的要因かランダムによって決定されている。
それが事実だとすると、すごぶる気持ち悪い考えにつながってくる。
すなわち、自己ってものそのものが嘘っぱちだってことだ。

自己ってのが何物にも影響を受けない独立した選択権を持っている何かだとするならば、俺たちの行動には一切の選択権は無いという事実によって、自己という存在が「無い」ってことが証明されてしまうからな。

こんな記事を書いている俺も、結局は何らかの刺激によってこの記事を書いているのであって、俺の自由意志なんてものは実のところ介在していないってのが真実なんだろう。

外的要因かランダムによって自分の行動や思考が決められているというのが事実なら、俺たちが存在する意味なんてものがあるのだろうか?

自分が居る意味

どうやら、俺たちは俺たちの存在意義を俺たちの自由に求めるってのが現実とは違うってことなのかもしれないな。

俺たちの価値ってのは、俺たちの自由を前提としていないって考えたらどうだろう?

こう言う禅問答のような事を考えるときは、やっぱり原点に立ち戻るべきかも知れない。
禅問答と言えば手塚治虫の「ブッダ」だよな。

「全ての存在には意味があり、あらゆるものとつながりをもっている」
出典:ブッダ

全ての存在に意味がある。
あらゆるものとつながりをもっている。

俺たちは意味もつながりも虚構だと知っている。

そして、その虚構でこそヒトは発展してきたと知っている。
国、宗教、貨幣。
ありとあらゆる虚構を作り上げてヒトは発展してきた。

ヒトは協力し合うことでこの世界にはびこってきた。

つまり、俺たちの自由という虚構もヒトが発展するために必要なものだったってことなのかもしれないな。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちに自由が無いとして、俺たちの価値を俺たちはどうやって確信すれば良いんだろう?

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