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こころと自分の好きな自分

あんたは「こころのまま」に生きろって言われたことあるかい?

俺はまったくないんだけれど、改めて考えてみると「こころのまま」という状態って実に難しい状態だよな。

そもそも「こころ」が何だってのをうまいこと言語化出来てるなら、俺は小説家として世の中を感動の渦に巻き込んでいるような一大スペクタクルな人生を歩んどるわな。

だがだ。
それでもだ。
「こころのままに」と言う言葉がもつ魔力ってのは普通にあると思うんだ。

だって、誰もが思っているはずだろ?
「ありのままを受け入れてほしい」ってさ。

「こころのままに」って言葉は、そう言う無条件の受容を含んでるものじゃん。

今回はこころってやつについて考えてみる回だ。

ちっとこの当たり前すぎるこころって存在について考えてみようぜ。

勇気とこころ

今回のこの記事の切っ掛けはこのnoteからもらったんだ。

Chiiさんは俺が個人企画として募集しているこの企画に乗っかって書いてくれたんだ。ありがたや。

#ミヨコそこに座んなさい

ミヨコと言う架空の人物に書き手のヒトが持っている座右の銘が醸し出す状況でどんな化学反応が起きるのかって言うワリカシ無茶振りな企画に乗っかってくれたChiiさんにはまずは感謝だな。

で、おそらくは日常に不満を感じているミヨコにChiiさん自身が声をかけると言う物語を紡いでくれたんだ。

いろんな読み方があると思うんだけれど、俺としてはChiiさんが「勇気を振り絞って」こころのままに声をかけているというのが印象的だったんだよね。

なんかね?
何も考えないで読むとさ、この「勇気を振り絞る」ってのと「こころのままに行動する」ってのはなんとなく矛盾している様に見えるじゃん。

なんとなく「勇気を振り絞る」と言う楽じゃない手段をとっているのに「こころのままに行動している」って違和感を感じたりしないかい?

でも物語全体を眺めてみると、この「勇気を振り絞る」のと「こころのまま」であることには矛盾は無いと感じることが出来たんだよね。

こころのままに勇気を振り絞る

なんで矛盾しないのか?

それはChiiさんの行動が「ミヨコの話を聞きたい」という自分の欲求に準じたものだったからだ。

あんたにもあるだろう?

客観的に考えたら「何もしない方が得」ってことってあるじゃん。
でも何もしない自分をスキになれないことってのも同時にあるじゃん。

つまり、この物語における「こころのままに」というのは「自分の好きな自分でいること」なんだよな。

Chiiさんは勇気を振り絞ってミヨコに声をかけた。
そうすることでChiiさんはChiiさんの好きな自分、この場合は勇気を振り絞る自分を手に入れる事が出来たってわけだ。

自分の好きな自分の形

で、冷静に考えると、この「自分の好きな自分」ってのは実に曖昧な感覚なんだよな。

全然体系だっていないと言うか首尾一貫していないというか。

まあ、そりゃそうだよな。
社会生活を営んでいくにあたって、どうしたって臨機応変に対応していかないといけないシーンってのには出くわす。

そこで、「自分の好きな自分」ってのが完全に明文化されていたとしたら、柔軟に対処していく事が出来なくなっちまうもんな。

そう考えると、「自分の好きな自分」を具現化するってのは、社会生活を送っていくにはちっとリスキーな要素があるってことになるんだよね。

でもそのリスクをとってでも自分の好きな自分でいたいと思うのが人情ってもんだよな。

そんな事を考えていたら、昔ダチと話していたことをなんとなく思い出したんだよね。

「無数の可能性がある中で、どこか一つの道を決めちまうと、修正が効かなくなりゃしないか?」
「そりゃあ、想像している道が狭すぎるんだよ」
「どゆこと?」
「俺たちが進みたい道ってのは、俺たちが想像するよかずっと広い。その広い道をどう歩こうがそれは俺らの自由じゃん」

そう考えてみるとさ、俺たちが好きな俺たちってのは、実はもっと柔軟性のあることなのかもしれないってオッサンになった今、改めて思ったんだよ。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちはもっとおおらかに自分の好きな自分ってのをイメージできると思うかい?

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