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低評価をつける心理

あんたは日本人が他の国に比べていろんな物やサービスに対して低評価をつける傾向があるって話を聞いたことがあるかい?

俺自身はそんな印象はなかったんだけれども、どうもsteamというゲームプラットフォームでは英語圏のヒトのレビューでの低評価率に比べて日本語圏の低評価率が倍近く多いって話があるみたいだ。

そのために、あえてゲームを日本語対応にしないという選択をするメーカーも出てきているって話もあるらしい。
マジか。

しかもこれってゲームに限った話じゃなくて、Amazonのレビュー結果にもそう言う傾向があるって話もあるらしい。

今回は低評価をつける日本人の特性について考えてみる回だ。

ちっと、俺たちがどういう民族なのかってのを振り返ってみようぜ。

低評価をつける理由

あんたはAmazonで買い物をしたときに低評価ってのをつけたことがあるかい?

俺はあんまりつけてる意識はないんだけれど、前にAmazonマーケットプレイスで出品していたときに、低評価をもらったことはあるんだよね。

そして、その低評価の理由が製品そのものじゃなくて、「箱がつぶれていた」とか「配送が遅かった」とかの理由でつけられることも多々あった。

配送梱包についてはAmazonに任せていたってのもあって、そう言う評価はAmazon側の責任ってことで、評価の取り消しってのをAmazonに要求できるんだよね。
で、実際の商品の品質に対して低評価がつくってのはほとんどなかったと思うんだよ。

そこではたと考えてみる。

なんでこの低評価をつけるという動機は生まれたんだろう?ってね。

英語圏の低評価が少ない理由を考えてみる

逆になんで英語圏のヒトは低評価をつけることが少ないんだろうか?

例えば、YouTubeとかで高評価ボタンを押す動機ってのはシンプルにオモロイって思ったからだと思うんだけれども、低評価ボタンを押す動機ってのはなんなのかって話だよな。

単純につまらないだけなら、その動画を見るのをやめるだけでことが済む話だと思うんだけれども、意図をもって低評価をつけるってのにはその意図ってのが何者かってのが気になるもんな。

steamの統計結果から見えるのは、どうやら日本語を使うヒトは「つまらん」という意思表示をすることに価値を見いだしているのに対して、比較的英語圏のヒトは「つまらん」意思表示に価値を見いだしていないってことなんだと思う。

これってさ。
もしかすると英語圏のヒトは「つまらん」を共有することに対して意義を感じてないってことか?

「つまらん」を共有する必要性

じゃあ、日本人はなんで「つまらん」を共有するって価値観が生まれてるんだ?

なんとなくだけれども、日本という場所に住むことによって、日本人ってのは「人生は苦難の連続だ」って本能的に感じてるってことなんじゃないか?

日本という土地には地震をはじめとして台風、噴火、火災、干ばつなどありとあらゆる自然災害が訪れる。

結果として日本に住まうヒトは多くの悲劇にみまわれて、その都度自らに降りかかった不幸を嘆くことが多いと思う。

それゆえに、日本人は出来るだけその不幸を避けたいと思うし、出来るだけ幸福を味わいたいと思っていると思うんだ。
避けようのない不幸ってのが現実として横たわってるわけだもんな。

なので、避けようのある不幸ってのはきっちり共有しないと、短い人生を楽しむことができない。

その結果として「つまらん」を共有するという同調圧力みたいなものが出てくるんじゃないかな?

ん?
じゃあ「つまらん」じゃなくて「オモロイ」を共有した方が良いだろって?

そら、全くもって同感なんだけれども、俺らのなかにはぬぐい様のない「不幸への信頼感」ってのがある気がしないか?

幸福は必ずくるとは限らないけれど、不幸は絶対に来るって確信。

ヒトの仕組みとして幸福よりも不幸が記憶に残りやすいってのはあると思うんだ。
そして、日本という天災に多く苛まれている土地ではその不幸の記憶が脈々と受け継がれてきた。

そして、ネットのレビューシステムはその不幸の記録をデジタル化し続けているってわけだ。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちはやっぱり不幸を見続けていくしがらみからは逃れられないんだろうか?

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