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行動する前の苦しみ

あんたは身の回りに課題が降ってわいたようなときに、どんなふうに感情が動いている?

課題っつーくらいだから、なんかしないと事態は悪化し続けるという、もうそのことだけでもゲンナリしちまうやつだよな。

かといって、放置していたらもっと嫌なことになるのはわかりきっているので重い腰に鞭打って行動を起こし始めるわけだけれども、その行動に至るまでの自分の中の気持ちの動きたるやってやつだ。

よくもまあ、毎回こんな風に自分の中でクローズしたような苦しみを味わう時間を延ばし続けてきたもんだって思うんだよ。

だってそうだろう?
どうせ行動を起こさないといけないのにも関わらずにだ。
その行動を起こすまでに「ああ、やんなきゃなぁ」とか「やりたくねぇなぁ」とかさんざんパラ「嫌だ」という感情を味わい尽くしているわけだ。

ある意味マゾっぽいって思うくらいに、俺はそういうグダグダな苦しみを味わい尽くしているってのがある気がする。

で、ふと周りを見る。

こういうのを「産みの苦しみ」っていうひとくくりにしていいもんかってのはあるけれど、誰しもがこういうグダグダな感覚ってのを持って過ごしているんじゃないかなって思えるような光景は結構いろんなところに転がっている気がするんだ。

今回はこのグダグダな感覚について考えてみる回だ。

まあ、この感覚とどう付き合っていくのが良いのか。考えておこうぜ。


毎日の産みの苦しみ

とりあえず、俺が毎日味わっている産みの苦しみといえば、このnoteがある。

毎日投稿なんつーのをしていると、当然ながら「はて?今日は何を書いたもんだべ?」って手が全く動かないような状況に追い込まれていくこともある。

ニュースを眺めてみても、相変わらず「なんでそうする!」っていう感じのニュースばっかりで、ちっともオモロくない。
ネット上に転がっている笑顔にオモロさを感じられない状態に陥っちまっていると、本来であればその笑顔の向こう側にあるはずの物語を想像することも難しい。

そんな見えない鎖でがんじがらめにされてしまっているような、それでいて、その鎖を握りしめているのは自分自身だって感覚がある状況。

そういうのってあんたにもあるかい?

産みの苦しみを味わっている自分

あの感覚が俺を支配しているとき、俺は何をしているんだろう?

やんなきゃいけないのはわかっている。
でも気持ちが言うことを聞かない。
いや、「動く」ということに対する嫌悪感にも似たような、もっと言うなら現状維持という魅力に呪われているような感覚。

そう、こたつから抜け出せなくなるあの感覚だ。

朝起きるときに布団から抜け出せなくなる、あの感覚だ。

あの感覚って誰だって持っているものだと思うんだよな。
でもちっと考えてみてくれよ。

何のためにあるんだ?あの感覚。

産みの苦しみの存在意義

例えば毎日の勉強に取り組んでいる息子を眺める。

ホント毎日飽きもせずに勉強に取り組み始めるまでのインターバルをいかにして引き延ばすのかってことに何かを賭けているのか?ってくらいに執着しているように見える。

あの時の息子の気持ちがこたつから抜け出せなくなるあの感覚と通じるところがあるとするとだ。

このグダグダな苦しみってのは誰しもが持っているって前提で考えるとヒトという生き物としての生存戦略にこの感覚が何か関係を持っているってことになると思うんだよな。

じゃあ、それって何なのか?

おそらくは変化というリスクへの恐怖なんだろう。

言い換えれば現状維持ってのが本質的に生き物として最も延命するのに都合がよかったってことなのかもしれない。

確かに水にカエルを入れておいて、徐々に加熱するとカエルは逃げることもなくゆで上がっちまうっていうゆでガエルの話からも、現状維持ってものに生き物が本能的に惹かれているってのはあるような気がする。

ところが、変化のスピードは指数関数的に速度を増している現代。
現状維持というのは俺たちの生存戦略としてまっとうに機能しなくなっているってのを俺たちは理屈では理解している。

生き物としての現状維持へのあこがれ。
現実として変化し続けなければ生き残れないという状況。

そのはざまで生まれた感覚。
それがこのグダグダな産みの苦しみってやつなのかもしれないな。

なあ、あんたはどうだい?

この苦しみとの時間をどうとらえていこうか?

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