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結果とやり方の大切さ

あんたは子どもの勉強を見ることとかあったりするかい?

我が家の息子が通う小学校は、普通の公立小学校で、いわゆる中学受験とかに熱心なご家庭は少ない印象だ。

なんなら学校で出された宿題もやって来ない子どもがいっぱいいる感じ。
まあ、今の世の中で生き抜いていくために何が必要なのかなんてことを俺自身わかってないから勉強をしようとしない子どもにあーだこーだ言えるもんでもないんだけれどさ。

そんな中で我が家の息子は比較的「やらなければならないこと」をぶつくさ文句を言いながらやる方だと思う。

今回は、そんな息子の勉強を眺めながら思ったことをなんとなく記録しておこうって回だ。

そもそも勉強ってなんだべ?
考えてみようぜ。

正解の決まっている問題

小学生の勉強ってのは、その多くが「正解」を持っている問題を解くことで成立している。

漢字の書き順はこう。
払いはこう。
計算はこう。
地図記号はこう。
ものの温まり方はこう。

実に多岐にわたる知識が「正解」と共に子どもたちに与えられている。

世の中に出てからも「間違えないこと」を要求され続けるという現実がある以上はこの「正解」を求められ続けるという訓練は避けて通れないものだもんな。

それと同時に正解なんて無い課題にもさらされ続けるのが世の中ってもんでもあると思う。
この二律背反とも思える状況でしのいでいくヒトになることを子どもたちは求められているわけだ。
改めて考えるとしんどい話だ。

で、少なくとも正解のある問には正確に答えることができないと話にならないので、子どもたちは頑張って問に答え続けている。

答えのある問題の訓練

で、息子のその答えのある問への取り組み方を見ていると、ふと気づくことがある。

子どもたちが問に立ち向かっているときに、その評価をする大人たちは「答え」があっているかどうかってことに注目しているってことだ。

学校の宿題にしても、習い事にしても、その問にどの様に取り組んで答えを導き出しているかよりも、結果としての答えがあっているかってことを重要視している。

俺自身がそう言う結果を重要視していたってのを改めて感じたんだよね。

でもさ。勉強ってホントは答えを出せる能力を身につけるより、答えを出せるやり方を身につけるのが本質のはずなんだよな。

連立方程式を解くために加減法と代入法がある中で、どちらがより有利に解けるのかってことに思いを馳せる事ができるようになるのが目的って感じ。

ところが俺たち大人はそんなふうなプロセスまで含めて子どもの勉強を面倒見る手間暇をかけることは現実的にはできないので、回答があっているかだけで子どもたちの勉強の進捗を測ろうとしている。

試しに一緒に解いてみる

例えばわかりやすいところで、計算問題ってのがある。

細かなやり方としては、色々と方法がある中で、大人である俺たちがどの方法を用いて計算するかって、結構な癖が出てくるもんだなぁってのを感じるんだよ。

同じ問題を解く場合でも、俺と妻では「効率的」と思う方法がまるで違う。

で、息子はそんなやり方を身に着けているわけじゃないから、試行錯誤で俺たちから見ると「非効率」なやり方で計算に取り組む。
まあ、そらそうだよな。

で、最近やってみているのが、息子が計算で間違ったところについて、親も解いてみて、その解く過程を伝えるって方法だ。

息子自身の計算の過程と俺たち大人のやり方の差を探させてみる。

まだ結果が出ているわけじゃないけれど、なんとなく息子の理解度が上がるのがスムーズになっているような気もするんだ。

で、ふと思う。
これって仕事でも何でも同じじゃね?

正解のない課題への取り組みを共有する意味

で、大人の世の中ではさっきも書いたとおり正解のない課題でてんこ盛りだ。

正解の有無に関わらず、俺たちはその課題に結果を出さなければならない。

正解が無いんだから、その結果の出し方だって千差万別なんだよな。
ためにしあんたの上司が取り組んでいる課題ってのを眺めてみるとどうだろう?

実に多彩な方法でその課題に取り組んでいるのが見えると思うんだよ。

そのやり方ってのを今よりちょっと眺める時間を作ってみたとき。
俺たちのヒトとしての幅が増える気がしないか?

なあ、あんたはどう思う?

俺たちは結果ではなくやり方にもうちょっと興味を持ってみても良いと思うかい?

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