感情を揺り動かすもの
あんたの家では家族と話し合っていたりするかい?
俺の家の場合、いわゆるディスカッションって会話はほとんど成立していない。
意見の相違、即会話の中止って感じになりがちだ。
俺が求める妻に求める「そう考える理由」ってのがどうにもめんどくさくて仕方がないって思われているらしいんだよね。
俺:「なんで嫌なの?」
妻:「嫌なものは嫌なの!」
こんな感じ。
まあ「嫌」って感じることは妻にとって事実なので、少しでもその「嫌」って感覚を解きほぐしていきたくて、その理由を細分化したいって俺は思ってしまうんだけれども、その感覚を解きほぐすって行為そのものに嫌悪感があるらしい。
今回は、この俺たちを支配しているといっても過言ではない「感覚」について考えてみようって回だ。
ちっと俺の思考の旅に付き合ってくれよな。
「感覚」の理由を考えるってこと
まず、俺自身の「感覚」に対する考え方を整理してみたいと思うんだよ。
俺たちヒトという生き物には自由意志はない。
これは生物学的には常識とされる考え方だってのはサピエンス全史が教えてくれているんだけれども、今の所、俺にとって非常に納得行く理屈として腑に落ちている。
前にサピエンス全史を紹介したnoteも書いてみているから、合わせて読んでみてくれよな。
で、俺たちに自由意志はない。
つまり俺たちは「怒りたい」と思って怒っていないし、「泣きたい」と思って泣いていない。
同じ様に「楽しみたい」と思って楽しんでいないし、「笑いたい」と思って笑っていない。
つまり俺たちは様々な感情を抱いているって現実はあるにしても、その感情は俺たちの意思なんてものには左右されないってんだよね。
サピエンス全史によれば、俺たちが感情を抱くのは「外からの刺激に対する反応」か「全くのランダム」なんだそうだ。
「全くのランダム」なら理由を追い求めることには意味はないんだけれど「外からの刺激に対する反応」として感情が起きている場合は、その刺激が何かってことを整理することには大きな意味があると思うんだよね。
なんでだって?
俺たちが「楽しい」って思う刺激を整理できれば、その刺激を積極的に受けに行くってことは出来そうじゃんか?
もしくは「怒り」の刺激を遠ざけることはできそうじゃんか?
「怒り」の刺激を考える
で、俺自身の「怒り」の原因ってやつを振り返って見るんだけれど、結構な確率であるキーワードがあったりするんだよね。
もしかしたらあんたもそうなんじゃないかな?
俺の「怒り」の記憶には高確率で「正義」ってキーワードがついてまわる。
俺の中の「正義」にもとる行為。そいつが俺の中の「怒り」を呼び起こしちまうらしい。
この「正義」ってのは実に厄介だよな。
正義はヒト一人ひとりで微妙に違うのに、それと違うってだけで相手を「敵」にしちまう。
かと言って「正義」を全く捨て去ってしまったら自分の中の軸みたいなものを失ってしまう。
まったくもって厄介だ。
あんたの「正義」を俺が飲み込むために必要なもの
で、その厄介な正義とどう付き合っていけば、俺たちは「怒り」を沸き起こらせずに済むのか?
そのためには「正義」の違いを飲み込むことが必要ってことなのかもしれないな。
俺とあんたの「正義」の違いを把握したときに、その違いに敬意を払うために必要なもの。
それもやっぱり「正義」なのかもしれないな。
あんたの「正義」を確信した状態で、あんたの「正義」と俺の「正義」の違いを把握すれば、俺はあんたの「正義」を尊重できるんじゃないかって思うんだよな。
つまり、「正義」の違いを飲み込むためには「正義」の共通点を把握する必要があるってことなのかもしれない。
で、俺の中の「正義」って何か。
そいつはみんなが笑って暮らせるようになるためのモラルだと思うんだよね。
つまりは、このnoteもそうだし、他の俺が書いたnoteもそうだ。
俺が日々書いているnoteが俺の正義のかけらってことなんだろうな。
さて、あんたはどうだい?
あんたの「正義」俺にも教えてくれよ。
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