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老いゆく自分への言葉

実に暑い日々が続いているわけだけれど、あんたはどうしのいでいる?

俺の場合は、本当に暑さに弱くて物理的に家族と同じ気温で過ごすことができないくらいなんだよな。

家族が過ごしている気温の中にいると、額から汗がとめどなく溢れ出してきて、息も絶え絶えになる感じ。

明らかにここ数年の中では一番体調が怪しい。

かと言って、今の感染状況ではかかりつけ医に行ってもまともな治療もしてもらえないし、何しろ明確な症状があるわけじゃないから町医者の設備では検査できることも限られてしまうしね。

じゃあ、総合病院に行けって話かもしれないけれども、ここんところ総合病院での診療についても実に信頼が置けない。

そもそも「暑くてしょうがないんです」って話しても「ああそうですか」ってしか言えない気もするしね。

今回は弱っていく自分との付き合い方を考えてみる回だ。

あんたはなんか不調があるんなら、俺の意見なんて参考にせずに専門家に相談してくれよな。

微妙な体調と付き合う生活

体調に伴う不快感ってのはいろんな物があるよな。

さっきの暑いってのもそうだし、食欲不振、目のかすみ、膨満感、頭痛、腹痛、体のしびれ、咳、鼻水。
膝の痛みに腰の痛みに肩や背中の痛み。

その一つ一つはまあ、なんとかなるもんだ。
問題はそれらがいっぺんに弱い不快感で襲ってくるのが日常的になるってことなんだよな。

なんつーんだ。
真綿で首を絞められている感覚?

各々の症状に合わせた薬を全部飲んでたら流石に体に負担がかかるので、その症状たちと共存することに慣れていかないとやっていけない感じ。

まあ、それはそれでヒトなんてのは何にでも慣れるもんだ。

ただ、その耐える作業をこなす分、多分だけれども俺が世の中に提供する価値の品質は落ちていると思うんだよな。

徐々に役立たずになる自分

作業品質だったり、集中力だったりというものが削られているってのが事実だとして、それは周りに良い影響を与えるもんでもないよな。

ワカゾーの頃に感じていたあの昇っていく感覚ってのはもう俺には感じられていないと思う。

もちろん、この変化の時代だ。
出来るようになったことはワカゾーの頃よりもある。
ポイントは出来る様になることの数が増えるペースが明らかに落ちているって感じることだ。

20代の頃はがむしゃらに与えられた仕事をこなすしかなかった。
30代の頃は20代のときに得た経験をもとに工夫をする楽しみを知った。
40代の今は自分よりも若い世代のヒトの能力が開花していく姿をフォローする楽しみを知った。

ではもうすぐなる50代になったら俺は何を知るんだろう。

死にかけの自分が提供できる価値

徐々に出来ることが削られていく生活。

明確ではないけれども、それでも実感として襲ってくる「死」という状態。
一番怖いのは死にかけという状態かもしれない。

家族や仲間に迷惑をかけながら生きる。

そんな状態の俺は一体何のために生きていけるんだろう。

多分、いろんなことはまだ出来る。

例えばこのnoteで発信することで何かをあんたが感じ取ってくれれば、それは俺が世の中になにかの影響をもたらしたってことだもんな。

怖いのは様々な苦痛とともにありながら、俺は思考を止めないでいられるのかってことだ。

出来ることが削られるのは仕方ない。

でもさ。もし叶うなら最期までこの思考するってことだけは俺から奪わないで欲しい。

生きる意味なんてことを追い求めるほど、若者じゃないけれど。
今の俺にとって考えるってのは俺が唯一俺に認めた価値だから。

ああ、でもなぁ。
きっと客観的に見たらその考える力そのものも脆弱化していっているんだろう。

でもだ。
それでもだ。

それは俺が考えることを諦める理由にはならない。

だって、それをやめたら、俺は俺を何一つ認められなくなっちまう。

「諦めたらそこで試合終了だよ」って安西先生も言っているしね。

なあ、あんたはどう思う?

自分が弱り続けている現実と俺たちはどう付き合っていくのが理想なんだろう?

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