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健康で文化的な最低限度の生活

あんたも3.11での福島原発での事故に対する最高裁判所での判決のニュースを見たかい?

判決としては「国は津波の規模を予見できなかったから責任は負わない」ってものだったらしい。

はは~ん。なるほど。
予見できなかったんだからしょうがないじゃんかってやつだね。

え?
でもさ。

それは東京電力も同じじゃね?
でも東京電力という会社は被害者に対して保証のための支出をしているわけじゃんか。

……10兆円だと?
そんなん1企業でケア出来るはずないから国の補助とかが動いているとは思うんだけれども、それでも国支出しているってことを明確にすることには意味があるとは思うんだ。

今回は国が3.11における原子力発電所の被害について「責任がない」という今回の最高裁判所の判断について考えてみる回だ。

ちっと誰かを貶める方向じゃなくて今回の判決を考えてみたいんだよ。

法的に国が3.11での原発の責任を負わない意味

今回、最高裁判所で国には3.11における原発事故の責任はないよって判決になったわけだ。

法律的にはあの事故について行政がなにか手を打てることはなかったって認定されたってわけだ。

なんつーかさ。
俺たち庶民からすると、「え!?そうなの?」ってなるやつではあると思う。

だって、あれだけの歴史に残るような事故が起きたときに、そこに住まうヒトたちが自分たちの故郷を奪われたことに対して国って団体は責任を追わなくて良いのって感じるもんな。

でも、逆に国の職員の立場で考えてみる。

いや、マジでなにが出来たんだっけ?

福島原発を襲った津波は確かにその当時の想定を超えていたってニュースは聞いている。

その時点で例えば東京電力という一企業に国が「想定よりもでかい津波が来るかも知んないからそのための設備を作るように」って言ったとして、「何の根拠でそんな事言うんだ」って話になるよな。

じゃあ、そもそも海岸に原発作ることを許可するなって話になるかもしれないが、内陸に作ったとしても未発見の活断層があってその結果、想定外の自身によって炉心融解に至るなんてことが起きたら同じ様な非難を国は受けるだろう。

じゃあ、そもそも原発なんて許可すんなって言い始めると、エネルギー安全保障って言う、今まさに日本が直面している問題についてどうすんだって話になる。

そう考えていくと、今回の最高裁判所の判断ってのは「しょうがない」って感覚も芽生えてくるんだよな。

判決と国の保証

判決としては国には責任がないと出た上でだ。

国が被災地の皆さんに何らかのケアをしないで良いのかってのは別問題だ。

だって、日本国憲法に「健康で文化的な最低限度の生活」ってのが保証されるって書いてあるしね。

そして、日本は国として原発避難者特例法を始めとしていろんな形で被災者の皆さんをサポートする行動は起こしている。

このことに対して「俺たちの税金を無駄遣いすんな」って意見は聞いたことがない。

ってか、俺としては個々人へのサポートだけじゃなくて、周辺地域で避難者を受け入れてくれた地域についても、道路や住宅建設を含めて国からのお金を入れるのが正解だと思う。

財源は国債でね。

んなことしたら円安が更に進むだろって?

そいつはちと理屈が合わない。

だってアメリカの国債残高と日本の残高を比べたら1000兆円分くらいアメリカの方が多いんだぜ?

その差はちょっとやそっとではうまることがないくらいの差だ。
なら1000兆円まで国債発行して良いのかってのはちと違うけれどね。

最近はエネルギーコストや原材料費の高騰にともなってインフレが進んでいる。
従来からコアコアCPIで景気状況を見極めろって話は出ていたけれど、それですらエネルギーと原材料コストの高騰で引っ張り上げられている。

ぶっちゃけ何も関係ないように見える美容院の価格だって上がっているところすらある。
※普通に電気代が上がっているから価格に反映せざるをえない

問題は価格が上がっても、その価格上昇によってその商品を扱っているヒトたちの収入は増えてないってことだ。

だからさ。

国が復興の錦の御旗のもと、民間企業にお金を落とす意味ってのはでかいはずだよな。

そうすれば、民間企業は売上と利益を伸ばすことが出来るし、復興って言う一定期間はどうしたって続けなければならない事業を継続的に国が進めますよってなれば、民間企業もそれに対応して投資が出来る。

そうなれば、その投資を受けてさらなる売上と利益が生じるから、世の中にお金が回りやすくなる。

今のコストアップ型インフレとは違う本当の意味で俺たちが望んでいるデフレ脱却だ。

その意味では3.11に対する「責任」に対する判決は別の意味で見えてくる。

もしかしたら、責任を最高裁判所が認めてしまったら、その判決の範囲でのみ国が支出することで良いって免罪符を与えることになっていたかもしれない。

健康で文化的な最低限度の生活を保証することが義務付けられているのにだ。

逆にあの判決は健康で文化的な最低限度の生活の保証という国の義務について改めて俺たちが考える切っ掛けをくれたのかもしれない。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちが健康で文化的な最低限度の生活を送るためには何が必要なんだろう?

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