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「ありがとう」を考える

あんたも誰かに感謝するってこと、あるかい?

俺たちはガキンチョのころから、言われ続けているよな?
ありがとうって言いなっさいってさ。

ごはんを作ってくれてありがとう。
掃除をしてくれてありがとう。
道を譲ってくれてありがとう。
説明をしてくれてありがとう。

実に様々なありがとうが世の中にはあるよな。

ところが、このありがとうには悲しい共通項があるんだってことを教えてもらったんだ。

今回は、その共通項を教えてくれたnoteを紹介しつつ、その共通項について俺自身が感じたことを記録しておこうって回だ。

ちっと、おれと一緒に「ありがとう」について考えてみてくれよな。

ありがとうって言葉の一過性

今回俺に「ありがとう」について考える切っ掛けをくれたnoteがあるわけさ。

それがこのnoteね。

みつはさんによる、非常にシンプルでありつつその分グサッとくるnoteだ。

一言でいうと「ヒトはありがとうって感情を維持できない」ってことだ。

最初の変化があったとき、その変化が好ましいものであればその変化をもたらしてくれたヒトに対して、俺たちは自然に「ありがとう」って思う。

ところが、その「ありがとう」の感情は結構あっさりと消えてしまって、あとに残るのは、その変化した状況を維持するための作業だけだったりする。

例えば、ご飯を毎食作ってくれる家族に対する感情ってのは、どんどん「あたりまえ」という感覚に侵食されていく感じ。
あんたにも経験があるだろう?

食事のような日常とは離れたことでも同じことが言える。
例えば、オンラインサロンで毎日濃ゆい情報を受け取っていても、日々それが続くとその情報を受け取ることが「あたりまえ」になってしまう。
その情報がどれだけ毎日変わっていようともだ。

俺たちの感覚は、すべてのことを新鮮なままで感じ取れるほど強靭には出来ていないってわけだ。
すべてを新鮮にとらえていたら俺たちの心はあっつーまに壊れていってしまうってことなんだろうなぁ。

「ありがとう」という呪い

俺たちが「ありがとう」の感情を維持できないということが現実だとして、それでも「ありがとう」と言われた方はその状況を維持することに邁進してしまうんだろう。

なんつっても感謝されることって本当に心地よいことだからな。

ところが「ありがとう」の感情は維持されないため、徐々に「それをするのがあたりまえ」って役割だけが残ってしまう。

考えてみたら、世の中ってのはこの「あたりまえ」が集合して出来上がっているのかも知れないな。

ゴミ収集の仕事も最初は感謝から始まったような気がするじゃんか。
それがいつしか「あたりまえ」に変化して、その状況を社会的に維持するためにその「ありがとう」から始まった作業は「仕事」へと変化した。

そもそも貨幣ってのが「ありがとう」の数値化って話もあるって聞いた時ないかい?

お金持ちってのは、感謝されることが多いヒトの総称だってやつだ。

俺たち日本人は報酬を受け取るってことにある種の嫌悪感のようなものを持つことが多いと思うんだけれども、本質的に報酬が「ありがとう」を形にしたものだって思うと、ちょっと感覚が変わってくるよな。

そう。
「ありがとう」を貨幣という形に変えることで、俺たちは自分たちが「ありがとう」の感情を維持できないことを補完してきたのかも知れない。

「ありがとう」を集めたいって欲求

お金が「ありがとう」を形にしたものだとしたら、俺たちはもう少しお金を集めるってことに積極的になったほうが良いのかも知れない。

どうやったら「ありがとう」って言ってもらえるのかをホンキで考えることはムダにはならないと思わないかい?

考えてみたら、世の中の経営者と呼ばれるヒトは「いかにしてヒトに喜んでもらえるか」ってのを四六時中考えているわけだもんな。

経営者ではない俺もそのことを考えてみることで、より多くのヒトの感覚を想像できるかも知れないもんな。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちは、誰かの一過性の「ありがとう」に向かって俺たちの人生を差し出すことが出来ると思うかい?

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