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ヒトと会話と感情と

あんたは人間関係について考えることがあるかい?

あのヒトとうまく関係を作れない。
あのヒトの言っていることがおかしい。

まあ社会に出ても学生の時でも人間関係ってのは実に多くの課題が出てくるもんだよな。

もはや恒例行事のようにももまろさんの記事を読ませてもらったわけよ。

今回の記事で俺の心に引っかかったのはこれだ。

他人を攻撃する人は無自覚

ももまろさんの記事

おおう。
実に俺たちを振り返させるフレーズだと思わね?

俺たちはさ。
なんかしらのことで発信をしてたりするじゃんか。SNSとか。

その発信で「誰かをやっつけちゃろ」って思って発信することってワリカシ少ないと思うんだ。

単純に思ったことを書いている感じ。

でもそれが「無自覚の攻撃」になっていることがありえるのか?

今回は発信と攻撃について考える回だ。

ちっと言葉の戦いについて考えてみようぜ。


無自覚な攻撃

いやね。
俺の記事ってさ。
ワリカシいろんなニュースだとか、noteの記事を引用して書いているじゃんか。

政治家のヒトに対する意見は手抜きなしに批判してたりする。
でも俺としては人格攻撃をしているつもりはなくて、純粋に政治家のヒトの意見に対して「ここが自分と違う」って表現しているつもりなんだよな。

いや、つもりになっているだけで、もしかしたら人格攻撃をしちまっていることもあるのかな。

あんたがもし「そいつは人格攻撃だぜ」って思ったことがあれば、それを教えてくれよな。

でね。
ポイントはこの「無自覚」っていう現実だと思うわけよ。

何しろ無自覚なんだから攻撃していることを理解出来ていないわけだ。

ぶっちゃけ「○○ってオモロイよなぁ」って言うだけで誰かを攻撃したことになる可能性もある。

そのオモロイものを否定するような表現をするヒトを攻撃することになるかもしれんからね。

無自覚な防御

じゃあ、無自覚に「防御」しちまう言葉ってのもあるのか。

誰かを意識の外で拒絶しちまうようなこと。

いやそれが悪いって言いたいんじゃないんよ。
シンプルに「無自覚」ってことを意識する意味があるんじゃないかなってことね。

つまり拒絶する意味について言語化してみたら何かを生み出すんじゃなかろうかってことね。

なんで嫌なの?
なんで怖いの?

そういうのってさ。
言語化して誰かに伝えることってレアじゃん。

例えば、俺の理屈っぽい日々の投稿を見てだよ。
「なんかオモロくないなぁ」とか思ったとする。
大抵はオモロくないんだから、読まないでどっか行くってのが自然だわな。

そこには感情すら存在しない。
無関心ってやつだ。
無関心を表現するのは無理だよな。
なんつったって、感情も意見もそこには存在しないんだから。

でも、「なんか嫌だな」て思ったりしたとする。
それは言葉にしておいた方が良いように思うんだよな。

なぜ嫌なのか。
なぜ違うのか。

その感情と意見は何かを生み出すかもしれないと思うんだよな。

自覚した議論

そんな無自覚な攻撃と防御でだ。
生まれる対立ってのは悲劇を生み出すってのは想像に難くない。

なんつってもお互いに無自覚に相手を否定しあっているわけだもんよ。

無自覚である以上は、感情が入口なので相手がいくら正当性のあることを言ったとしても受け入れることが難しい。
感情ではじめた会話。
それが感情で終わる。
それは想像に難くないだろ?

だとすればさ。
俺たちは結論を導き出そうとしたときに、感情で議論を始めちまうのは愚策ってことなんだと思うんだよ。

無自覚で始める会話ってのは大抵が感情で始まる会話だ。
そこに「意図」は存在しない。
結論を出すという目的意識は存在しない。

とすれば、感情で始めた議論の決着点は高い確率で相手の人格否定だ。

これはもしかしたら俺の感情の話なのかもしれないけれどさ。
感情に任せた人格否定ってのは何かを生み出す可能性が低いと思うんだ。

否定するときは、否定されたヒトが納得出来る理屈を用意する。
それってヒトとやり取りする作法だと思うんだよな。

でないと「お前はおかしい」の応酬になって、無限に分かり合えない地獄が待っているだけだもんよ。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちはどうすれば相手の言い分ってのを引き出すことが出来るんだろうな?

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