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挑戦することと普通でいること

あんたは、今日は何に挑戦するつもりだい?

そんな質問を投げかけたら、あんたはどんな事を言うだろう?

地域の野球大会に出るって言うかもしれないし、なにかビジネスを立ち上げるために人と会いに行くって言うかもしれない。

でも多くの人は、昨日と同じことを続けている。

俺たちヒトは、現状維持ってやつに邁進するように基本的に出来ている。
毎日のようになにかにチャレンジ出来るヒトってのは、もしかしたら進撃の巨人でいうところの奇行種なのかもしれないな。

今回は、この挑戦しないことってやつについて考えてみる回だ。

俺たちは何に焦っているのかってこと。ちょっと考えてみようや。

学生時代の挑戦

俺たち団塊ジュニアと呼ばれる世代は、何にせよ人口が多い。

そのため、学生時代は受験戦争だの就職戦争だの、まあいろんな戦争に巻き込まれている。
※こう言うこと書くと、本当の戦争なめんなって思うあんたも居るとは思うけど、その時は生暖かく見守ってくれるか、そのトゲついた思いをコメント欄にぶつけてくれ。

で、同世代が多いということは、学生時代はストレートに競争相手が多いことを意味していた。

同い年の人が同じような教育を受けて、その上で成績の良し悪しをつけられて、中学、高校、大学、大学院と受験をすることで自分の「格」みたいなものを作り上げていくわけだ。

例えば、俺は神奈川の出身なのだけれども、俺の中学時代にはア・テストなんてものが存在していた。

なにかっつーと、中学2年生のときに行われる神奈川県内で一斉に行われる学習到達度判定テストってやつだ。

このア・テストによって、俺たちは格付けをされて、その時点で受験できる高校の格が決められるってテストだ。

このテストがあるおかげで、そのテストに集中せざるを得ない状態に学生は追い込まれる。本来なら、本人の理解を進めるためにア・テストの範囲以外の学習を進めることで、全体的な理解を推進できるようなこともあるはずなんだけれど、ア・テストの試験範囲以外に労力を割くのが「悪」みたいな事になっていたのを今でも思い出す。

そう、学生時代の挑戦ってのは、こう言う周りのルールに則った挑戦だったと思う。

しかも、その挑戦は自分の意思で始めたものではなくて、周りの大人から「挑戦しなさい」と明確に言われてやっていた挑戦だったと思うんだよね。

社会人になってからの挑戦

そんな周りの大人に求められた挑戦を続けていた学生時代。

その延長線上で就職なんてものをして、会社人になった。

会社に入ったら入ったで、やっぱり周りの大人達は俺たちに「挑戦」を期待していた。
最初は仕事が明確に割り当てられ、その仕事をこなすことで、ある程度の仕事を任され、失敗やら挫折やらと成功やら賞賛やらを繰り返しながら俺たちは俺たちの「立場」ってやつを作り込んでいった。

いや、作り込まされたってのが実態かもしれない。

そこに自分の明確な意思があったのかって言われると、「?」の文字がどうしてもつきまとってしまうからだ。

でも、今。時代は進む速度を年々増している。俺自身はいろんなことを吸収したいと思うようになっては来ているけれど、正直ついていけないと思うことも多くなってきた。

その次代の変化についていかないって選択肢もある。
今の日本は驚くほど柔軟で、俺たちが挑戦しない「普通の人」であることも許してくれているフシがある。

出世を一切しないで、淡々と仕事をこなすってことも、あんたが務めている会社のどこかにはある。

きっと大事なのはあんたの「意思」なんだと思う。

あんたが「挑戦したいのか」「そのままでいたいのか」って意思だ。

ぶっちゃけ、「そのままでいたい」って思いは、普通の感覚だ。冒頭言ったとおりヒトは現状維持をするように動くのが普通なんだから。

現状維持は悪じゃない。会社組織としての現状維持は緩やかな死を意味するが、個人での現状維持は別にその人の価値観って言葉で保護されても構わない。

それでもあんたは挑戦したいと思うかい?

その意思にも価値がある。もしかしたら、その価値は誰かの幸せにつながってさえいるのかもしれないしな。

さあ、あんたはどうする?

挑戦するかい?真実を受け入れるかい?

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