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ニューノーマルが子どもの人間関係に与える影響

あんたも子どもたちを眺めて色んな感情をわかせているかい?

子育てなんてものをさせてもらえているわけだけれども、実に多くの感情が俺の中を駆け巡っていくことを感じるんだよね。

「なんでこんなに出来ないんだろう?」って思ったり「はは~ん、そう言う言い方で逃れようとするのか」だったり「なんやかんや言って、自分の決めたことはきっちり進めるんだな」とか。

そこで、ふと気づく。

自分の家に友だちが来ることが少ない?

今回は今の子どもたちの友だち付き合いについて考えてみる回だ。

ちっと状況を整理してみようぜ。

徒党を組めない状況

我が家の息子は今、小学4年生。

いわゆるギャングエイジの始まりになるような年代だと思う。

俺らのガキンチョの頃なんて、この頃から徒党を組んで誰かの家に入り浸って遊んでた記憶があるよな。

ゲームやったり、校庭で走り回ったり、サッカーしたりして遊んだもんだと思う。

1対1の人間関係から1対nの人間関係へと変化してきたのもこの頃だと思うんだ。

あのワチャワチャした感じの中で、なんとはなしに楽しんできたのがあると思う。
逆に1対1の友だち関係をないがしろにしてしまって失敗してしまった記憶もあるな。

兎にも角にも、子どもなりに社会ってものを肌で感じ始める年代だと思うわけだ。

ところが、今の子どもたちはそれが出来ない。
なぜって?

だってニューノーマルなんだもんよ。

徒党を組もうにも、やれソーシャルディスタンスだなんだとヒトとの接触そのものがタブー視されている世界観だ。

小学生のコミュニケーションなんて、じゃれ合ってなんぼだから、これでは新たな人間関係を構築するのなんて無理なんだよな。

結果として、子どもたちは同じ保育園出身の友だちとつるんだままで、地域の子どもたちとビフォーコロナの頃に人間関係を作り上げられた子どもだけがかろうじて徒党を組むことが出来ていて、それ以外の子どもたちは陸の孤島よろしくぽつんとクラスの中で孤立することになる。

まあ、先生方のたゆまぬ努力によっていじめのような感じにはなっていないようだけれども、人間関係が固定化してしまうってコト自体にはどうにも手が打てないってのが現実らしい。

固定化された人間関係に首を突っ込む勇気

実際、息子にも聞いてみた。

「仲間に入れてって話しかけるわけにはいかんのかい?」

「だって、そんなことしたら『なんだよ急に』って顔されるのが嫌」

どうよ、この見事にヒトを恐れている様子。

ヒトというものが怖いものだって認識はある意味ではあっている。
ヒトはそのヒトの置かれている状況に応じて思惑をもって行動するものだ。
その思惑が想像できない状態では、そのヒトの行動を予測できない。

つまり人間関係を構築してからじゃないと、心地よいコミュニケーションってのは本質的には難しいはずだもんな。

でも人間関係を構築するためにはコミュニケーションが必要だ。
人間関係を作り始めるときには苦痛を伴うってことになる。

ニューノーマルになる前は、その苦痛を負うきっかけがそこかしこにあったんだと思う。
それこそ教室にある程度の人数を突っ込んでおけば、そこに自然にコミュニケーションが生まれたわけだ。

じゃれ合って、大声で笑い、走り回る。
その過程で自然と人間関係は構築されていったわけだ。

ところが今。

じゃれ合いも、大声を出すことも、走り回ってドロケイすることも難しい。

まるで大人が人間関係を構築するように「言葉」でコミュニケーションをとることしか出来ない子どもたちが置かれている状況。

そして、子どもたちはまだ満足に「言葉」を使うことも出来ない。

息子一人眺めていても、圧倒的に語彙の数が少ない。
これはたまに遊びに来る息子の友人を見ていても同じ様に思うので、年齢相応ってことなんだと思う。

だとしたらだ、少ない語彙という弱々しい装備を携えて、人間関係を増やすための戦場に子どもたちは赴いていけるんだろうか?

なかなかな勇気を必要とする状況だよな。

なあ、あんたはどう思う?

誰しもがその勇気を持てないという現実に、子どもたちはどう立ち向かっていくんだろう?

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