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情報と自分と

あんたもいろんなヒトの発信を眺めているかい?

俺もふらふらといろんなヒトの発信を眺めるなかで、こんな記事を読ませてもらったんだ。

いや、普通に無理でしょ。

俺のなんか2,100記事以上あるんだぞ。
だいたい1,500文字くらいの文字数で。

俺の発信を全部読んだヒトなんて俺しかいないと思う。

ってか、俺自身ですら昔発信した内容をきちんと覚えてるのかって言われたら「すんません」ってなるやつだ。

今回はいろんなヒトの過去の発信を眺めるってことを考えてみる回だ。

まあちっと、世界にいるヒトたちの感情の歴史ってのを見てみようぜ。

誰かの文章を読むってこと

実際ね。
誰かの文章を読むってのはある意味で「覚悟」がいることだと思うんだよ。

自分の世界を広げてくれるってのはある。
でも同時にそれは自分の世界を変化させるってことなんだよな。

今まで生きてきた中で、明らかに自分を変えた文章ってのはある。
それが書籍だったり、ゲームだったり、ネット上の発信だったりと形式はいろいろある。

サピエンス全史だったりガンパレードマーチだったりと俺なりの片寄りはあるんだけれどね。

で、ネット上でのいろんなヒトの発信については、基本的には書籍やゲーム、メディアの放送に比べて文書量が少ないと思う。
それでも心に引っ掛かるなにかを与え続けてくれているんだと言う印象なんだよな。

心に引っ掛かりを与えてくれる。
それは同時に自分を変えるって現実をつれてくる。

これ実は結構エグい話でさ。
要するに自分が他人に「こういうヒトだ」って思われている状況を変えるってことなんだよな。

言い換えれば、誰かの言葉を見たり聞いたりすることってのが、今の自分に
期待を寄せてくれているヒトのことを裏切るってことになるわけだ。

いやいやいや、そいつは「成長」であって「裏切り」にはならんだろって?
ホントか?

俺たちに望まれていること

そもそもだよ。
俺たちは何を求められているのかって真っ当に考えたことあるか?

仕事の上では強制的に自分の価値みたいなものを表現する必要性に迫られているってのはあると思う。

でも、それは「機能としての」に求められていることだよな。
それもひとつの自分の望まれていることではあるけれどさ。

ある意味「機能」の一つなんだと思うけれどさ、プライベートの自分に求められているものって、たぶん「〇〇と聞いたらこう返すヒト」って期待だと思うんだよな。

例えば、このnoteをいつも読んでくれているあんたは、俺になんか質問をしたら普通とは違う斜め下からの反応ってのを期待するじゃん?
あれ?してない?

まあ、俺自身への期待の正誤は横においておくとして、ヒトは誰かとの会話で相手に期待した回答ってのを求めるもんだと思うんだよな。

でも、当たり前だけれども、俺たちはこの情報の激流の中で生きているんだから「変わらないでいる」ことは不可能に近い。

実際、俺のnoteの初期の頃の書いていることと、今の書いていることはぜんぜん違うって感じも受けると思う。文体がそもそも違うし。

その意味では、俺は初期の頃に俺のnoteを読んでくれていたヒトを裏切っとるわけだ。仕方のないことだとは思うんだけれどね。

自分の根っこ

じゃあ、この情報の海の中でだ。
俺たちは変わり続けると言うことは罪なのか?

違う。
断じて違う。

なぜか?
変わり続けることが求められているからだ。

矛盾だと聞こえるか?
確かにそうだ。

ヒトは相手に期待している一定の答えを求めている。
でも同時に俺たちが判断できる範囲を広げることを求めている。

つまり俺たちは変化しないことと変化することを同時に求められているってわけだよな。

その要求に対して俺たちはどう考えていくべきなのか。

たぶん、「自分の変化させない部分を選んでおく」ってことだよな。

言い換えれば自分の根っこを抑えておくって感じか。
これ、結構難しいことだと思うんだよな。

自分の根っこってわかっているようでわからないもんだもんな。

なあ、あんたはどうだい?

自分の根っこ。捕まえられそうかい?

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