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神と神々の差が産み出すもの

あんたは日本に住んでいるヒトの宗教観ってのについて考えたりすることがあるかい?

よく、ネットをぶらついていると目に付くのが日本人の持っている宗教観の特殊性みたいな話が目に付いたりするんだよね。

いわく、日本は根っこに神道の感覚があるので、特定の宗教を信奉するってのが少なくて、ありとあらゆる宗教ってのをまるっと受け入れているとかなんとか。

実際、俺個人の感覚としても、ただ一柱の神様が全ての責任をおっかぶさっていくってのは結構な違和感を覚えたりする。

仮にこの世界を作った神様がいたとして、その世界で起きた全てのことの責任はその世界を作った存在にあるのか?
ってか責任ってなんだ?

今回はヒトが宗教において絶対的な存在を求めるって状態について考えてみる回だ。

ちっと、俺たちが何に頼っているのかについて考えてみようぜ。


身の回りにある宗教を眺める

日本で暮らしている中で、宗教っぽい何かってのはワリカシいたるところに見ることができるじゃんか。

特に年末年始に至っては宗教のバーゲンセールかってくらいに宗教の色のついたイベントが目白押しだよな。

クリスマスでイルミネーションの美しさに感動を覚えて、除夜の鐘に耳を澄ますことでその年にあったことに思いをはせ、初詣で地元の神様に新たな一年を無事に過ごせるように祈りをささげる。

日本人は無宗教だって話もよく聞くけれど、こうして眺めると実に多くの宗教行事が生活の中に溶け込んでいるってのが実態だと思うんだよな。

宗教が生活に溶け込んでいる理由

冷静に考えてみると、この宗教と生活が一体になっていると言ってもいいくらいに混ざっているのってなんでなんだろうな?

思うに、宗教に対するハードルの低さみたいなのがある気がするんだよね。

例えばキリスト教。

日曜礼拝とかいう言葉があるように、信者に対して何らかの制約を与えているってのがある気がするんだよ。

これはイスラム教における「食べてはいけないもの」だとか「礼拝のルール」にも同じものを感じるじゃん。

なに?それを言ったら仏教だっていろいろとあるだろって?

そうかなぁ?
確かに僧侶みたいな宗教を生業にしているヒトはそうかもしらんけれど、一般の檀家のヒトなんて、そんなに厳格に宗教行為を行っちゃいないよな。

俺の感覚でいくと「神様仏様」って言葉が示しているように、仏様も数多くいる神様の一柱なんだよな。
その仏教自身も世界を作った存在を崇め奉っているってわけでもない。

神様っていうのは、絶対的な力を持った意思を持つものというよりは、世界をあるがままにとらえた象徴的なものって感覚。

神様ってのが世界そのものなんだから、生活に溶け込むってのはワリカシ自然な話なのかもしれないと思うわけよ。

圧倒的な力との向き合い方

神様が絶対的な力をもってヒトになにかをする存在ではないとしても、世界がヒトという生き物に対して無慈悲と言えるほどの災厄をもたらすことがあるというのは揺るがしがたい事実だよな。

では何でその圧倒的なまでの自然の力に対しての振る舞い方が神道とキリスト教やイスラム教などの一神教とでこうも違うもんなんだろう?

一神教では力を持つものと契約を結ぼうとする。
神道のような多神教ではその力と共にあろうとする。

って書いていて思ったんだけれど、一神教という前提なら確かに契約を
結ぶというのが一番効率的なんだよな

なにしろ契約相手が一柱だけなんだもん。

一柱なら、契約を神が守らなかったとしても、その守られなかった原因を神に押し付けることができる。
まあ、押し付けると言っても相手が絶対神だから、原因はヒトに跳ね返ってきちゃうんだけれどさ。

対して多神教の場合はたとえ一柱の神様と契約を結んだとしても、他の神様とは約束していないんだから、契約の意味がない。

ってか圧倒的な力の差があるんだから、そもそも契約のような対等な関係を前提とすることそのものに違和感がある。

だもんで、多神教では圧倒的な力を理解しようとするってアプローチになるってのも自然に思えるよな。

さて、あんたはどうだい?

圧倒的な力を感じたときに、その力を利用しようとするかい?それとも理解しようとするかい?

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