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勧善懲悪の存在意義

あんたもなんか目につくニュースってのがあるかい?

俺の場合、朝の情報番組だけはテレビで見ている感じなんだけれど、なんかやたらとどこそこ保育園での不祥事的なニュースが流れてくる気がするんだよ。

たしかに逆さ吊りにしてみたりとか、ちっと子どもの成長の場としてはいかがなものかって状況も伝えられているんだけれど、シンプルに「それニュースにするの?」って感じのことも伝えられていた。

お仕置き部屋に5分間子どもを入れたとかね。

そうしてみるとさ。
やっぱり、俺たちの中に潜んでいる「正義の味方」ってやつが這い出てきてしまってるようにも見えるんだよ。

今回はそんな俺たちの中にいる「正義の味方」とそれを刺激する情報の意味を考えてみる回だ。

ちっと、俺らの感情はどんなふうに刺激されているのかって考えてみようぜ。

勧善懲悪の物語の存在意義

別にこの「正義の味方」の感覚を刺激するのは現実に起きているニュースだけじゃないよな。

それこそ水戸黄門に代表される様な勧善懲悪の物語ってのは昔から脈々と受け継がれていると思う。

半沢直樹しかり、ごくせんしかりだ。

ドラマに限らずアニメやマンガ、小説にもこの勧善懲悪って要素は普通に盛り込まれることが多いと思う。

つまり勧善懲悪ってニーズはずっと俺たちの中にあり続けているってことなんだと思う。

しかも、これって日本に限ったことでもない気がするんだ。
ハリウッド映画なんて勧善懲悪の極みじゃんか。

知らんかったんだけれども、イスラム教の概念の一つとして勧善懲悪ってのがあるらしいね。

そう考えるとこの勧善懲悪ってものに対するニーズってのはヒトという生き物が抱えているものって言っても良いのかもしれない。

正義が必要になる理由

そう考えてみると一神教と多神教では正義が必要とされる理由が微妙に違うのかもって思い始めたな。

一神教ってのは主に大陸で国境を陸続きで抱えている国々で信奉されている印象がある。

陸続きなので、戦争と言う状態はいつ何時起きてもおかしくないって世界観が醸成される。
いわゆる紛争史観ってやつだね。

ヒトにとっての「悪」というのは必ずヒトだって考え方だ。

この感覚に照らして考えると、「悪」というのは明確に自分たちの外に定義される必要がある。

つまり一神教においては「悪」とは「あいつら」を定義するために必要な概念で、その「悪」を作り上げるために「正義」という概念が必要だったってことなんだろう。

では日本みたいな多神教ではどうなんだろう?

日本の場合は国境を陸続きで抱えるって状況は今はない。
太平洋戦争時はそう言う状況もあったかと思うけれど、基本的には日本の歴史ってのは「島国」として成立していた気がする。

なので、大陸の様に「ヒト」が「悪」になる理由は無いように思える。

ところが日本にも古来から勧善懲悪の物語は愛され続けているよな。

これはどういうことなんだろう?

日本で勧善懲悪が求められる意味

まず思いつくのが「出る杭」をやっつけたいって感情からくるのかってことだ。

それこそ悪代官にしろ、半沢直樹の伊佐山部長にしろ、何かしらの「悪巧み」をしてヒトを出し抜こうとしているもんな。

その「悪巧み」は客観的に見るとギリギリアウトな感じのグレーゾーンを使っている感が強い。

言い方を変えれば、誰も思いつけなかった工夫を凝らして、その結果として「誰かに迷惑をかけている」ってのが「悪」なんだよな。

ところが、この迷惑をかけるってのはヒトが社会で生きている以上は避けられない事実だとも思う。

どこかの会社が特許を取って、その技術を独占したら、その他の会社はその技術による利益を得る機会を奪われるわけだもんな。

そう考えてみると、実に多くの突出したキャラクターのヒトたちが「悪者」にされている気がする。

ホリエモンさんしかり、ひろゆきさんしかり、竹中平蔵さんしかりだ。

つまり、日本においては「誰かと違うこと」が「悪」ってわけだ。

なぜか?
まあ、日本が多くの自然災害に見舞われているからだろうなあ。

「違う奴ら」とは一致協力して災害に対応出来ないもんな。

そう考えると、保育園での不祥事ニュースも「俺らとは違う奴ら」をあぶり出すことで、自分が「俺たち」の一員でいられることを確かめているって側面があるのかもしれない。

なあ、あんたはどう思う?

仲間外れを見つけ出すことを、俺たちは「正義」と言い続けられるんだろうか?

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