不安と向き合う方法
あんたも漠然とした不安ってやつに襲われることがあるかい?
うまいことその不安の原因をつかめないときに、俺たちはたまらない焦燥感に襲われていく事があると思うんだ。
その焦燥感のきっかけは様々なバリエーションがある。
それはテレビで見たニュースかもしれないし、息子が思ったよりもきれいな字を書いている事かもしれない。
インプットとなる情報はポジティブでもネガティブでも突然、俺たちは不安を抱えてしまうわけだ。
今回は俺たちが抱えてしまう不安について考えてみる回だ。
ちっとここいらで俺たちの心の仕組みを振り返ってみようぜ。
不安は「感情」
まず大前提として、不安という感覚は俺たちが感じている感情の一つだってことだ。
俺たちがどうやっても感じることをやめることができないもの。
それが感情だ。
すなわち、俺たちは不安を感じることそのものを抑制することはできない。
俺たちはヒトという生き物である以上は不安を感じるようにできているってわけだ。
でもさ、不安を感じるなんてことを俺たちは望んでいるわけじゃないじゃんか。
だとしたら、俺たちはこの感じてしまった不安ってやつをなんとか他の感情で上書きしちまいたいところだよな。
不安の対象を定めようとしてみる
実際問題、この不安ってのは極めて厄介だ。
何が厄介かって不安の原因となっているものが大抵は存在しないからだ。
大抵の場合、何かのハードルがある場合はそのハードルを作り上げているものが「これ」って言うことが出来る。
ただ、不安の場合「これ」ってものが定められないことのほうが多い。
コイツが課題と不安の違いってことなんだろう。
逆に言ってしまえば対象を定めてしまいさえすれば、俺たちは不安の感情を課題っていう計画にすることが出来るってわけだ。
コイツはなにげにデカイ事実だよな。
漠然とした不安を具体化してみる
じゃあ、俺たちが感じている漠然とした不安ってやつを整理して見るところから始めてみよう。
例えば、俺の場合は最近、自分の体調について不安をいだいている。
ものすごい膨満感に襲われて、全く胃腸が動いていない様な感覚に襲われたもんだから、医者に行って何らかの病名なり何なりの形にしてもらおうと思ったんだけれども、医者いわく「なんでかわからないけれど胃腸が全く動いていない」って言われるだけだったんだよ。
いやいやいや、それ医者が言っちゃダメなやつじゃんか。
とか思ったけれども、考えようによっちゃ「胃腸が動いていない」ってターゲットが明確になったってことなんだよな。
この瞬間から俺の膨満感に対する「不安」から、胃腸が動いていないって「課題」に状況はシフトしたってわけだ。
胃腸を動かすってことだけなら、ストレスへの対応やら適度な運動とかをこなせばいいだけだ。
そう考えると不安におののくことは無くて済みそうだよな。
具体化しにくい不安
ところが、俺たちが感じる不安の中にはこう言う風にシンプルに具体化できないケースも多々あると思うんだ。
例えば将来への不安とかなんて最たるもんだよな。
10年後にきちんと暮らせているんだろうか?
息子はきちんと真人間に育ってくれるんだろうか?
今、俺は誰かに受け入れられてもらえているんだろうか?
そのどれにも答えはない。
しかも、具体的な課題落とし込むことも難しい。
俺たちがこの不安の感情を抱えながら生きないといけない類のやつだ。
こう言う不安を感じた時、俺たちはその不安に翻弄されるしか方法が無いんだろうか?
完全に対応することは難しい。
でもなにもできないかって言うと、それも違う気がする。
何をするんだって?
不安を共有するのさ。
幸い、俺たちは誰でも発信できるって世界に生きている。
俺たちの親の世代ではその不安を抱え込むしかなかったかもしれないけれども、その不安を俺たちは言葉にすることが出来る世界に生きている。
誰かが誰かの不安を聞いてくれる世界に生きている。
それは、今という難しい時代で、数少ない救いなんじゃないだろうか?
なあ、あんたはどう思う?
俺たちは、発信するってことで、誰かに救いを求め、受信するってことで、誰かを救えるんだろうか?
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