客観性とリーダーの覚悟
あんたは、今日も仕事で客観性を求められていたりするかい?
客観的な根拠がなければチームリーダは判断できない。だからこそその判断を間違いないものにするために、メンバーは客観的な事実を取りまとめる。
それが普通の仕事のススメ方だよな。
ただちょっと考える。この客観性って本当に仕事をうまく進めるためのものなんだろうか?
今回は、この客観性という言葉が持つ課題について考えてみる話だ。
コレがこうなっているんだから、この事実があるってことは、起きている現象はこう説明ができる。
そんな感じで俺たちは説明を求められる。
それそのものはものすごく普通のことで、だからこそ俺たちはスキができないように仕事を進めようとするわけだしな。
ただ、この客観性って言葉は少し問題を含んでいることを俺たちは意識していく必要がある。
なぜかって?それは俺たちが得られる情報は森羅万象全てを網羅した情報じゃないってことだ。
一部の情報を切り取って、「確からしい」と判断しているに過ぎないんだよな。
時間が有限である以上、情報の取捨選択をすることは必然なので、一分の情報を切り取って判断することそのものは仕方がない。
問題は、その一分の情報で客観性を求められているって事実だ。
もう少し言うなら客観性はなぜ求められているのか?ってことな。
仕事をうまく進めるため。それが大義名分だ。だが、その本質ってそこじゃないんじゃないか?って最近は思うようになってきた。
では本質はなにか?
ズバリ、リーダーの責任逃れだ。
リーダーにも上司がいて、上司にも上司がいる。会社のトップになったとしても、株主がいて、顧客がいる。
つまり仕事をするためには、それらの上司もしくは株主、顧客に対して理由の説明が必要になるってことだ。
当然リーダーは上司に対してメンバーが用意した客観性のあるとされるデータを根拠として示す。
上司は上司の上司にリーダーが出してきた客観性のあるとされるデータを根拠として示す。
結局は、客観性が言い訳の材料に使われているってことだ。
でも、さっきも言ったとおり、その客観性は一分の情報を切り取っているものだから、本当の意味での客観性なんてものは担保されているわけじゃない。
だから、いくら客観的なデータがあろうとも、失敗するときは失敗する。
その時にリーダーがとるべき態度は「客観的データで判断していましたが、そこに考慮漏れがありました」って言い訳だとあんたは思うかい?
俺は、計画時に「不確定要素は取り除けません。リスクとして受容して進めます。」と宣言して、そのリスクを組織として受容すると判断して進めていくってことだと思うんだ。
つまりは、客観性を本当の意味では排除しきれていないってことを関係者間で認識しておいて進めるってことだな。
究極、そのリスクは顧客とも共有されて、プロジェクト全体としての博打を打っているって状況を共有するわけだ。
そして、そのリスクが顕在化した場合には、リスクを受容すると判断したリーダーが責任を取るという覚悟をプロジェクトメンバ全員に共有する。
その覚悟がメンバを奮起させるってことなんじゃないか?
その覚悟なしに客観性だけを求めるリーダーは信頼されないよな?
あんたの所はどうだい?
覚悟を示したリーダーがいるかい?
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?