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議論の本来の目的

あんたも日々誰かとなにかの議論を交わしていたりするかい?

よく、日本人は議論が下手っぴだって話を聞いたりする。
和の精神は文字通り協力し合うことを尊んでいるので、議論って言う対立の構造に慣れていないからだなんて話も聞くよな。

俺の中の感覚でも似たような感覚は持っていたりした。
なので、ちゃんと高等教育の場でディスカッションの経験を積めるような授業を用意するべきだって意見もなんとなく「そうかもなあ」って思っていた。

でもね。
この間ネットを散歩していたら、ちょっと目からウロコな意見を目にすることが出来たんだ。

今回はその意見に対して考えを整理してみる回だ。

ちっと一緒に議論ってものについて考えてみようぜ。

議論というエンタメ

よくテレビを始めとするコンテンツで専門家同士で議論を交わしている番組ってあるじゃんか。

朝まで生テレビなんてのが代表格だよな。

専門知識が飛び交って、その妥当性についてお互いの見方がぶつけ合い続けられている討論エンタメだよな。

それはそれでオモロイわけだけれども、俺の記憶では番組としてなにか一つの結論にたどり着いたってことがないように思える。

そう考えると、この朝まで生テレビでの議論って何を生み出しているんだろう?って思うことってないかい?

そんな感覚がぼんやりとある中でネットを散歩している時にこんな意見に出くわした。

「議論には知りたいと思っている立場の人間を混ぜるべきだ」
これ、ちょっと俺の中で衝撃的だったんだよね。

本来の議論の目的

なんで衝撃的だったかって言うと、本来の議論の目的ってのを自分が見失っていたところがあるんじゃないかって思わせてくれたからなんだ。

俺の中で少なからず「議論ってのは正しい意見がどちら側にあるのかを確かめる行為」だと思ってたところがある。

わかりやすいところで行けば「原子力発電を継続するべきかどうか」みたいなテーマでの議論ね。

原子力発電反対の立場のヒトはその制御が非常に困難で、しかもその制御を失敗すると取り返しがつかないことになるし、そうではなくても核廃棄物の処理についても最終処分地すら決められていないって現状を訴える。

原子力発電産生の立場のヒトはエネルギー安全保障の観点で単一のエネルギー源に頼ってしまうと、そのエネルギーの供給元が途絶えてしまったら、そもそも社会活動を維持することができなくなると訴える。

そのどちらも事実で、その事実は変えられないから、議論は平行線になり、お互いの現状認識に対する個人の中の重み付けが違うと言い合うだけの構造が出来上がって行くだけになってしまう。

これって、誰か幸せになるんだっけって思うと、確かになんか違う気がするよな。

そこで、さっきの「知りたがっているヒト」が必要になってくるわけだ。

さっきの原子力発電の議論の中で原子力発電に対する知識をあまり持っていなくて、それでも考える必要性があるから、その知識を得たいと思っているヒトが混ざるとする。

そうすると原子力は危険だし出口がないという反対派のヒトにそのヒトはこう聞くだろう。

「そんな危険なものをどうして最初に導入したんですか?」ってね。

それに対して原子力発電推進派のヒトはエネルギー安全保障と発電コストについての説明をするだろう。

そうすると知りたいヒトはこう聞くだろう。

「他の方法ではエネルギー安全保障は実現出来ないと言うのは事実なんですか?」って。

それには反対派が再生可能エネルギーの重要性を話し始めるかもしれない。
そしてすぐさま賛成派が再生可能エネルギーの不安定さを主張するだろう。

それを聴いた知りたいヒトはこう聞くんだろう。

「危険性と安定性を天秤にかけて今の状況があるとするならば、原子力の危険性を低めて行く活動や再生可能エネルギーの安定性を高める活動にはどんなことがあるんですか?」と。

な?
知りたいヒトが混ざることで、お互いの合意点形成ってゴールに向かって行く気がしないか?

議論の目的は相手をやり込めることじゃない。
相手から情報を引き出し、よりよい解決方法を模索することのはずだもんな。

そのために「知りたいヒト」って存在はすごく大切な気がするじゃんか。

「知りたいヒト」。
つまり俺たちだ。

なあ、あんたはどう思う?

全てのヒトが発信者になっている現代において、俺たちの知識欲は世の中を変えていく力があると思うかい?

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