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教育現場に求めること

あんたは義務教育に携わる先生たちの状況について考えたりするかい?

こんな記事を読んだんだ。

タイトルが刺激的だけれども、中身を見てみるとそれ以外にも結構な課題が教育現場に降り掛かっている様なんだよな。

この記事に書かれていることもそうだし、この記事に書かれていないことでもめちゃくちゃ先生たちが困っていることもあるだろう。

そして何より、その課題が解決しないことによって、子どもたちがうまいこと育つことが出来ないって現実も起きていると思う。

今回は学校の教育現場を想像する回だ。

まあ、教員でもなんでも無い俺の勝手な想像に付き合ってくれよな。


教師に求められる能力

まず上の記事の刺激的なタイトルである教師の大学偏差値が下がっているって話からだよな。

これだけ見ると、「おお、教師の学力が下がってるってこと?まっずいじゃん」って思うやつだ。

ただ、このことそのものはあんまりでっかい課題じゃないと思うんだよな。

いやだってさ。
小学校の算数や国語を教える能力と離散数学だの古典の作品の解釈だのって関係ないじゃん。

分数や図形の抽象概念ってのを小学生に伝えるのも、文章の伝えたいポイントを拾う感覚を伝えるのも、大学での学びとは直接関係無いよな。
どっちかって言うとコミュニケーションスキルだよな。

なんなら、「わからない」ことを理解する能力はその「わからない」を経験したヒトの方が優れているかもしらん。

なので、問題は教師の学力偏差値が下がっているってことじゃないと思うんだよ。

教育現場の課題

それこそ学校によって発生している課題ってのはめちゃくちゃバリエーションがあると思う。

学級崩壊みたいなことが起きちゃっている学校もあると思うし、より偏差値の高い学校への進学率を高めなきゃならんって状況の学校もあるだろう。

ここで俺が親の立場でだ。
学校に求めている期待みたいなものを言葉にしてみようとあがいてみるとしようか。

めちゃくちゃ無理難題を言っていることになると思うけれど、俺としては「子どもを真っ当な大人にして欲しい」ってなるんだよな。

いやいや、そんなん教育現場だけで出来る話じゃないだろ?

そりゃそうなんだけれどさ。
子どもたちが日常的に接触がある大人ってさ。
親か教師くらいなんだよな。

小売店の店舗の店員さんとかもいるだろ?
店員さんは子どもと会話してくれるわけじゃないじゃんか。

子どもがコミュニケーションを出来る大人って親と教師くらいなもんだと思うんだよな。

真っ当な大人

じゃあ、真っ当な大人ってなんだって話だ。

いや、そもそも俺は真っ当な大人なのか?
その問に対して「YES」と胸を張って言えるヒトってレアだと思う。

どっかしらに、課題を抱えながらなんとかしのいでるだろ?

ただよ。

その課題を抱えながらしのぐってのが「真っ当な大人」ってことなんじゃないか?

課題を抱えてないって思えるやつは、全知全能の神か課題を理解できないやつしかない。

俺たちがヒトである以上は全知全能の神にはなれないんだから、課題を認識してそれに対応し続けるしか無い。

そして、課題は無限に発生する。

そう考えるとだよ。

教育の現場に求められるのは「課題と向き合うやり方」なはずだよな。

ポイントは「課題の解決方法」じゃなくて「向き合うやり方」なところだと思うんだ。

いや、例えばよ?
算数の問題を解くのに苦労している生徒が居るとするじゃんか。

解けないことをなんとかするのって、本質的には教師や親の課題じゃないと思うんだ。
どっちかって言うと「解く」と言う行為に生徒を導くことが大人たちに求められていることだと思うんだよな。

結果として「解けた」という成功体験を積ませるのが手順として効率的だから「解き方」を教えているってだけでさ。

ただ、本質は「解き方」を工夫するってこと。
もうちっと言えば「考える」こと。
それを子どもたちにどうやって伝えていくかってのが「真っ当な大人」への道なんだと思うんだよね。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちはどうやって子どもたちに「考える」価値を伝えていけるんだろうか?

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