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「正しさ」という諸刃の剣

あんたにも誰かの意見や行動を見て「そりゃ違うんじゃないか?」って思うことってあるよな?

世の中に流れている情報を辿っていくと、どうしたって自分が持っている意見と違う情報に突き当たることはあると思う。

それが政治家の判断した結果についてのことだったり、芸能人と呼ばれるヒトがプライベートで起こした行動についてだったりと、その内容は多岐にわたる。

おそらくは、その「違う」って感覚が先にあって、それを世の中に説明できるようにするための正当性の裏打ちとして理屈を使った論理武装をしていく。
そんなのが一般的に行われている行動なんじゃないかって思うんだよね。

この感覚そのものの発生は感情だから、きっと抑制することはヒトと言う生き物である以上は出来ない。

でも社会と言う構造の中でヒトと言う生き物が生き延びてきたって歴史を前提に考えれば、発生した感情のまま行動をするってのは本質的には秩序維持に対する脅威になりかねないってことだとも思う。

今回はヒトを否定したくなる感情について考えてみる回だ。

ちっと自分の中にあるこの得体のしれない塊について考えてみようぜ。


例えばダブルスタンダードな発言

例えばガーシー元議員の有名人への脅迫の話ってのが普通に報道されているじゃん。

正直ベースで言うと、選挙のタイミングでNHK党から立候補するって話を聞いた時点で俺のガーシーさんへの認知度ってのは限りなく0に近い状態だったんだよね。

スキとか嫌いとか言う状態じゃなく「知らない」って状態。

俺にとっての「この世の中に何十億人っているほとんどのヒト」と同じ様に「知らないヒト」だったわけだ。

で、普通に知らないまま選挙が終わって、なんだかわからないけれどガーシー議員と言う妙にインパクトのある字面が目に飛び込んでくるようになって、あれよあれよと言う間に議員辞職、逮捕、裁判と流れて行っているって感じ。

で、おそらくそれだけのことだったら、俺の低めのアンテナに引っかかることもなく、普通に忘却の彼方にガーシーさんの存在が流れていくってのに時間は1週間もかからなかったんじゃないかと思うんだ。

でもなんか、俺の感覚を逆なでするような情報が引っかかってきたんだよね。

それが「家族」に対するガーシーさんの過去の発言だ。

「家族がいてアキレスけんを持っているお前らは俺には絶対勝てない」

出典:上記記事

こんな発言をしていた中で、こんな報道も流れてくる。

ご自身のご母堂を守る発言。

普通に「矛盾」を感じちまうわけだ。

「どの口が言う!」とか脊髄反射的に批判をぶつけたくなる感情ってのが湧き上がってくるんだよな。

正しさという免罪符

でもだ。
はたと冷静になろうと思っている自分もいるわけよ。

まずもって、俺個人がガーシーさんを批判したり、こき下ろすことによって生み出されることってなんなんだっけ?とか思ったりする。

もしかしたら批判という物事の整理をすることで自分のこれからの行動について何かしらの指針みたいなものをひねり出すこともあるかもしれない。

でも基本的には「正しくない」ことを「正したい」と言う実に原初的な感情の発露でしか無いんだよな。

で、こっからが厄介なんだけれども、この「正しさ」ってやつを客観的に立証することって実はめちゃくちゃ難しい。

何しろ、正しいってことを裏付けする数式のような揺るぎない存在ってのは世の中に存在していないと思うんだよね。

例えば1+1=2って数式。
こいつは疑いようもなく「正しい」って言えるけれど、この式の両辺である「1+1」も「2」も概念の話であって、現実の何かと関連付けをするためには「ヒトの思い」ってのが介在するんだよな。

だからこそアイザック・ニュートンが導き出した古典物理学は量子力学と言う存在を持って一部否定されたなんてことが起きる。
学問という本来は「感情」と無縁と思われる世界観の中ですらそんな事が起きる。

例えば法律。
法律に従って行動することは「正しい」ことなのか?

俺の感覚だと法律が決めることが出来るのは「犯罪を犯しているか」と言うことであって「正しいか」は決めることが出来ないってのがある。

つまりさっきの数式のように書いてみると「法律」という左辺と「犯罪」という右辺の両方が概念だから成立しているってことね。

これらをまとめて言うと正しさという「概念」と「現実」をイコールで結びつけることは本質的に出来ないってことになると思うんだよ。

でもだ。
それでも俺たちは「正しさ」という概念で現実に起きるいろんな事象を判断しているって「現実」もあると思う。

なぜか?

きっと「正しさ」が社会秩序維持に効果的な虚構だからってことなんだろうな。

「正しさ」という統一された判断基準を持てていると言う虚構。

それによって秩序が維持されていると「信じられている」現実。

そして、その「正しさ」という免罪符が生み出している誹謗中傷と言う秩序を破壊する行為。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちはこの「正しさ」という諸刃の剣をどう扱っていけば良いんだろうな?

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