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自分の「老い」を捕まえる

あんたも麻生太郎さんの「北海道の米がうまくなったのは温暖化のおかげ」発言のニュース見たかい?

まあ、何言っちゃってんの?ってニュースではあるんだけれども、ちょっと気になるのが「昔の麻生太郎さんならこんなこと言って無くね?」ってことだ。

確かに昔から麻生節なんて言われながら、カップラーメンの値段を知らないとかわけわからないところをマスコミ経由で財務省に突っ込まれていたわけだけれども、SDGsを始めとして世界的な環境問題に対する取り組みってのを捉えた上で、その流れを読めないヒトじゃなかったと思うんだよな。

今はその流れを読めなくなっているってことに見えるわけだ。

これって麻生太郎さんの個人の問題って言うよりは、シンプルに「老い」の問題にも見えるんだよな。

今回は老いってものについて、俺たちはどうしていくのがより良い世の中になっていくのかってことを考える回だ。

ちっと衰え続けるオッサンの気持ちに寄り添ってみないか?

老いによって衰えるもの

麻生さんの今回の発言が判断力の低下という老いの結果だと仮定してみる。

そう考えると、この過ちってのは俺らに等しく襲い来る結果ってことになるんだよな。
事故か病気で命が失われない限りはだけれども。

つまり俺たちは医療技術の向上に伴って、高い確率で「老害」に成り果てるってことだ。

判断力は下がっているのに、作り上げられた人間関係によって影響力だけは残っている状態。
しかもたちが悪いことに、本人にはその判断力の低下ってのは認識できにくいと来ている。

しかも和の文化である日本では「お前は老害なんじゃボケ」と教えてくれる若者もいない。

つまり然るべき将来に俺たちが老害に成り果てたとき、俺たちはその事実を知ることが出来ないってわけだ。

そもそも老害ってなんだ?

俺らは誰かに迷惑をかけ続けたいわけじゃないので、自分の判断力が衰えているってことをできれば知っときたいじゃんか。

でも自分の判断力が落ちている状態で自分の判断力を判定しろってのは無理があるわけだ。

一般的に判断力ってどうやって判定するんだろうか?

どうも「きっちり物事を理解しているか」で判定するってことらしい。

むずくね?それ。

ただでさえ、世の中にはわからないことに溢れかえっている中で、今の俺は正常な判断力を備えているのかすら疑問になってくるじゃんか。

怒りの感情に注目してみる

じゃあどうすんだって話だけれども、多分「理不尽な怒り」ってやつがポイントになる気がするんだよ。

なんか知らんけれど、こいつムカつく。
そんな感情が多くなってきたら、それは自分にコントロール出来ない何かに対して反応している頻度が上がってきているってわけだから、判断力が衰えてきたってことになる気がしてきた。

問題は自分のその理不尽な怒りってやつをどうやって捉えていくかだよな。

今の俺のように毎日noteとかで考えを文章にしていくことを続けることが出来たなら、その考え方の変化みたいなものを客観視することが出来るかもしれない。
その意味では発信するって自己を客観視するツールのひとつなのかもな。

ただ、今やっていて思うんだけれども、今みたいにずっと発信し続けるってのも結構難易度は高めだ。

まあ、Twitterよろしく思ったことを軽く書いていくだけなら、いけんのかもしれないけれどさ。

ただ、その場合も自分の発信を定期的に振り返るってのは必要になるよな。

でもさ、今もたまに1年前とかの自分の発信を読んだりしているけれども、なかなかきっかけがないとそう言う振り返りってやりにくいよな。

だとすれば、どうするのか?

やっぱ気軽に反応もらえる様に発信していくってのが現実解なのかな?

反応を貰えれば好意的にしろ否定的にしろ自分に対する評価を判断できる。

もちっと言えば否定的な意見に対して「なにおう!?」って思うことが増えてきたら自分が老害になったってことなのかもな。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちは俺たちの老いを知ったときに、自分で世の中との関わりを狭めていく勇気を持てると思うかい?

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