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「美」という虚構が生み出す力

あんたも「美しいもの」が好きかい?

ニュースサイトとか眺めていると、やれタレントの誰それさんの超絶ホニャララだの、誰それさんの年齢を超越したホニャララだのって記事がめちゃくちゃ飛び交っている。

ヒトについては主に女性が美しさをもつものとして扱われ、男性の「美しいヒト」ってのがたまに出てくると、それはそれでもてはやしている。

これは何もマスコミのヒトがそう言う偏りを持っているってわけじゃなくて、俺たち情報の消費者が「美しいもの」ってやつに価値を見出しているってのが普遍的に続いているからなんだよな。

美人とか美男子みたいなヒトに対する美意識もさることながら、この「美」って感覚は実に広範な概念だよな。

今回はその辺のオッサン代表の俺が「美」を考えてみる回だ。

まあ、あれよ。
ちっと俺と一緒にヒトの本能ってやつについて考えてみようぜ。

「美」を求め続ける世界

俺みたいなオッサンにとっては一瞬考えると「美」ってのは縁遠い話に思えちまうんだけれども、ネットを眺めれば、やれ誰それがキレイだって情報にぶち当たるし、書店に行けば「これどうやって読み分けてんの?」ってくらいにファッション誌的なものが溢れかえっている。

そう言う庶民的な「美」もさることながら、美術館なんて誰が行っているのかわかってないけれども、決して淘汰されない。
公的じゃない美術館であっても存続しているってことは、その「美」に対して経済が回るくらいにニーズがあるってことなんだよな。

同じ様に、俺たちは日常の中に実に様々な「美」を見出している。

シンプルに纏まっているプログラムソースを見たときにも、「美」を感じるし、流れる川を見ても「美」を感じる。
料理を見ても「美」を感じるし、物語に触れたって「美」を感じる。

俺たちはありとあらゆる事象に対して「美」を感じているんだ。

ヒトにとっての「美」

それほどまでに俺たちにとって大きな存在感を放ち続けている「美」。
これは俺たちヒトにとってだけのものなんだろうか?

よく鳥類はオスの方が色鮮やかな姿をしてメスを惹きつけるなんて話も聞く。
そう言う意味ではヒト以外にも「美」という感覚はあるのかもしれない。

ただ、この「美」ってのがそう言う観測可能な「鮮やかさ」にだけ依存していないってのがヒトにとっての「美」だと思うんだよな。

例えばさ?
とある数学の図形問題があったとする。
その問題を紐解いていくと、そこに「正三角形」が現れたとする。

それだけで俺たちは「美」を感じられるじゃんか。
何?意味がわからないって?

三角形ってのは多角形の中で最も安定した図形だ。
なんつってもそれ以上分割することが出来ない。
その中でも最も安定した図形。
それが正三角形だ。

その存在そのものに「美」を感じるってのは、たしかにヒトを選ぶかもしれないけれども、なんとなく感じるだろ?

こんな風に俺たちヒトは実に観念的に「美」を認識していると思うんだ。

いわば「虚構」ってやつだ。
神様とか国とか貨幣とかと同じ様に「美」を捉えているんじゃないかな。

「美」の力

「美」が「虚構」だとする。
つまり、俺たちヒトの特殊能力である「他のヒトと協力できる力の源」として「美」が存在しているんじゃないかってことだ。

確かに多くの美術品を守るためにヒトは労力を厭わなかった。
多くの美しいヒトのために多くの命が捧げられたってのも歴史だろう。

ところがだよ。
この「美」というやつには宗教にあるような教義もなければ、貨幣にあるような数字もない。
極めて主観的なものでしか「美」ってのは捉えられないって思わないか?

俺たちは「美」を感じた時にその理由を説明できないんだ。

輝く水面を見たときも、散りゆく桜を見たときも、絶世の美女を見たときも、正三角形を眺めたときも、その「美」を説明することが出来ない。
できるのは「美しい」とつぶやくことだけなんだ。

ただね。
その「美しい」というつぶやきの傍らで、あんたとは違う誰かもこうつぶやく。
「美しい」と。

そこにはあるんだよ。
確かな共感ってやつが。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちは俺たちの中にある「美」という感覚を通じさせることで何かを生み出せると思うかい?

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